子之燕居(1),申申如(2)也,夭夭如(3)也。
《论语》述而篇第七-4
(1)燕居:家でくつろぐこと
(2)申申如:のびのびとくつろぐ様子
(3)夭夭如:楽しそうな様子
素読文:
子の燕居するや、申申如たり。夭夭如たり。
解釈:
孔子は家にいるときは、いつものびのびとくつろぎ、楽しそうにしておられた。
凡人の印象では、孔子は家にいる時も考え事をしており、どちらかといえば沈思黙考の表情だったように思っていました。
子之燕居(1),申申如(2)也,夭夭如(3)也。
《论语》述而篇第七-4
(1)燕居:家でくつろぐこと
(2)申申如:のびのびとくつろぐ様子
(3)夭夭如:楽しそうな様子
素読文:
子の燕居するや、申申如たり。夭夭如たり。
解釈:
孔子は家にいるときは、いつものびのびとくつろぎ、楽しそうにしておられた。
凡人の印象では、孔子は家にいる時も考え事をしており、どちらかといえば沈思黙考の表情だったように思っていました。
《论语》雍也第六-2
素読文:
哀公問う、弟子、孰か学を好むと為す。孔子対て曰く、顔回なる者有り、学を好む。怒を遷さず、過ちを弐びせず。不幸短命にして死せり。今や則ち亡し。未だ学を好む者を聞ざるなり。
解釈:
哀公が孔子に尋ねた:“門人中で誰が一番学問が好きかな”
孔子答えて曰く:“顔回という者があり、たいへん学問が好きでした。怒りをうつさず、過ちをくりかえさない、顔回はそれができた。しかし、不幸にして短命で亡くなり、この世を去りました。顔回なきあとには、残念ながら、ほんとうに学問が好きだといえるほどの者はおりません」
《论语》雍也篇第六-25
素読文:
子曰く、“君子は博く文を学び、之を約するに礼を以てせば、亦以て畔かざる可か。”
解釈:
子曰く“君子はひろく書籍を学んで知見をゆたかにするだけでなく、礼に従って実践しその知見を自分のものになければならない。それを実践できてはじめて学問の道にそむかないといえる。”
多くの書籍を読んでいても、書籍から得た知識を実践できなければ識者とは言えない、ということでしょう。
樊迟问知。子曰:“务民之义,敬鬼神而远之,可谓知矣。”
问仁,曰:“仁者先难而后获,可谓仁矣。”《论语》雍也篇第六-22
素読文:
樊遅、知を問う。
子曰く、民の義を務め、鬼神を敬して之を遠ざく。知と謂う可し。
仁を問う。曰く、仁者は難きを先にして獲るを後にす。仁と謂う可し。
解釈:
樊遅が孔子に“知”とは何かを問う。
孔子は「正義を務め、神仏に対しては敬意は持つが、一定の距離を持つのを知という」と答えた。
樊遅はさらに“仁”とは何かを問う。
孔子は「仁者は困難なことを先にし、理を得るのを後にする」
子曰:“智者乐水、仁者乐山;智者动,仁者静;智者乐,仁者寿。
《论语》雍也篇第六-21
素読文:
子曰く、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静なり。知者は楽しみ、仁者は寿し。
解釈:
子曰く:“知者は水に歓びを見出し、仁者は山に歓びを見出す。知者は活動的であり、仁者は静寂である。知者は変化を楽しみ、仁者は永遠のなかに安住する”
知者は変化を追求し、仁者は変わらぬものを好む、という解釈でしょうか。
子曰:“人之生也直,罔(1)之生也幸而免。”
《论语》雍也篇六-19
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(1)罔:ない
素読文:
子曰く、“人の生くるや直し。之を罔みして生くるや、幸にして免る。”
解釈:
孔子曰く“人間とは、本来、正直に生れついている。それを無視して生きていられるのは、たまたま天罰を免れているに過ぎないのだ”
正直であれ。さもなくばいつかは天罰が降る。と言う意味でしょう。
子曰:“质(1)胜文(2)则野(3),文胜质则史(4),文质彬彬(5),然后君子。”
《论语》雍也篇第六-16
(1)质:生まれつきの資質
(2)文:教養による形式的な美しさ
(3)野:田舎臭い
(4)史:文書を管理する役人(形式的で心がない)
(5)彬彬:見た目も内容も整っていること
素読文:
子曰く、“質、文に勝てば則ち野なり。文、質に勝てば則ち史なり。文質彬彬として、然る後に君子なり。”
解釈:
孔子曰く“気立が良くても、教養がなければ野人。教養があっても、気立が良くなければ実務者以上にはなれぬ。教養と気立が揃って君子となる。”
子曰:“不有祝鮀(1)之佞(2),而有宋朝(3)之美,难乎免于今之世矣。”
《论语》雍也第六-14
(1)祝鮀:衛の大夫。名は鮀、字は子魚。祝は、宗廟の祭祀の官。霊公に仕え、雄弁であったといわれている。
(2)佞:弁舌がたくみである。「おもねる」の意ではない。
(3)宋朝:宋の公子、名は朝。美男子であったという。
素読文:
子曰く、祝鮀の佞有らずして、宋朝の美有るは、難いかな今の世に免んこと。
解釈:
孔子曰く:“祝鮀の様に弁が立ち、宋朝の様に美男でないとこの世には務まらないらしい”
孔子は、口先のうまい者、見た目が良い者でなければ治世は務まらないと嘆いたのでしょう。
いつの世も「本質」は評価されずとも、世の中を渡っていける人がいる様です。
冉求曰:“非不悦子之道,力不足也。子曰:“力不足者,中道而废,今汝画。”
《论语》雍也第六-12
素読文:
冉求曰く:“子の道を説ばざるに非ず。力足ざるなり。”
子曰く:“力の足らざる者は、中道にして廃す。今、汝は画れり。”
解釈:
冉求曰く:“孔子の説かれる道に心をひかれないのではありません。ただ、私の理解力が足りないのです。”
孔子曰く“力が足りない者は、途中で諦めてしまう。今のお前はそれだ。”
論語の中には何度素読しても理解できない節があります。途中で諦めずに努力継続せよ、と言う教えと理解しました。
子曰:“贤哉回也。一箪食(1),一瓢(2)饮,在陋巷(3),人不堪其忧。回也不改其乐。贤哉,回也。”
《论语》雍也篇第六-9
(1)一箪食:一杯の飯
(2)一瓢:一碗の汁
(3)陋巷:狭い路地裏
素読文:
子曰く、賢なるかな回や。一簞の食、一瓢の飲、陋巷に在り。人は其の憂いに堪えず。回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や。
解釈:
孔子は回(顔回)を賢者と讃えています。一膳飯に一杯酒で、粗末な住居に生活していれば、普通の人ならば落ち込んでしまうところ、回は生活苦は気にせず、ただ道を極めることを楽しみ、道にひたりきっている。
顔回は孔子が最も愛した弟子と言われています。31歳年少の最愛の弟子に先立たれ、悲嘆に暮れたことでしょう