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文・行・忠・信を教う

jiàowénxíngzhōngxìn

《论语》述而篇第七-25

素読文:

もっおしう。ぶんこうちゅうしん

解釈:

孔子は四つの科目により指導した。文献の研究、行動、忠誠、信義の四科目だ。

これ丘なり

yuēèrsānwéiyǐnyǐněrxíngérèrsānzhěshìqiū

《论语》述而篇第七-24

素読文:

いわく、さんわれもっかくせりとすか。われかくすこときのみ。われおこなうとしてさんともにせざるものし。きゅうなり。

解釈:

孔子は弟子たちに向かって言った「私の教えに何か秘密でもあって、それを君達にかくしていると思っているのではないか?私には何もかくすものはない。私はいつも、君達と一緒におり私の行動を見せている。それが私の教えの全部だ。きゅうとはそういう人間だ」

孔子の教えは、人として当たり前のことなので、もっと深い意味があるのではないかと考えてしまうのでしょう。重要なことは人として当たり前のことを実践することでしょう。

文行忠信

もっおしう。ぶんこうちゅうしん

《论语》述而篇第七-23

素読文:

もっおしう。ぶんこうちゅうしん

解釈:

孔子は四課題を以て指導をした。「文」:書籍の研究、「行」:生活体験、「忠」:誠意、「信」:社会的信義だ。

これが丘なり

yuē:“èrsān(1)wéiyǐnyǐněrxíngér(2)èrsānzhě(3)shìqiū(4)。”

《论语》述而篇第七-23

(1)二三子:諸君(弟子たちへの呼びかけ)
(2)不与:共に(行動)せず
(3)者:行い
(4)丘:孔子のこと

素読文:
いわく、さんわれもっかくせりとすか。われかくすこときのみ。われおこなうとしてさんともにせざるものし。きゅうなり。

解釈:
孔子曰く:“諸君は、私の教えをかくしていると思っているのか。私には何もかくすものはない。諸君はに私の行動を見ている。それがきゅうという人間なのだ”

後世に生きる私には、孔子の言葉の表面しか捉えていないのではなかろうかと思うことが度々です。孔子と同じ時代に生き、一緒に生活した弟子たちも私と同じ様な感覚を持っていたのではないでしょうか。

五十にして学ぶ

yuē:“jiāshùniánshíxuéguò。”

《论语》述而篇第七-17

素読文:

いわく、われ数年すうねんくわえ、じゅうにしてもっえきまなばば、もったいかるし。

解釈:

孔子曰く:“我に数年寿命を与え、50歳になって易を学べば、大禍なき者となるだろう”

孔子が何歳の時に言った言葉かはわかりませんが、50歳になって易を学べば、大禍なき者になるだろう、と言っています。これは自分自身について言った言葉ではなく、周りの弟子たちに言った言葉の様に思います。多分弟子たちはまだ50歳になておらず、歳をとってからでも学ぶことは重要であり、学ぶべきだと教えたのではないかと愚考します。

飯疏食飮水

yuē:“fànshūshíyǐnshuǐgōngérzhěnzhīzàizhōngérqiěguìyún。”

《论语》述而篇第七-16

素読文:

いわく、疏食そしくらみずのみひじげてこれまくらとす。たのしみうちり。不義ふぎにしてたっときは、われおいうんごとし。

解釈:

孔子曰く“粗食を水で飲み込み、ひじを枕にして寝るような貧しい境涯でも、そのなかに楽しみはある。不義によって得た富や位は、私にとっては浮雲のようなものだ”

伯夷叔齐は賢人なり

rǎnyǒuyuē:“wèiwèijūn
gòngyuēnuòjiāngwènzhīyuēshūrén
yuēzhīxiánrén
yuēyuàn
yuēqiúrénérrényòuyuànchūyuē:“wèi。”

《论语》述而篇第七-15

素読文:

冉有ぜんゆういわく、ふうえいきみたすけんか。こういわく、だくわれまさこれわんとす。りていわく、はくしゅくせい何人なんぴとぞや。いわく、いにしえ賢人けんじんなり。いわく、うらみたるか。いわく、じんもとめてじんたり。またなにをかうらみん。いでいわく、ふうたすけざるなり。

解釈:

冉有ぜんゆう曰く“師(孔子)はえいの君を援けられるだろうか”
子貢曰く“私が師にたずねてみよう”
子貢は孔子の部屋へゆきずねた。
はくしゅく斉せいはどういう人でしょう」
孔子曰く「古代の賢人だ」
子貢「二人は自分たちのやったことを、あとでくやんだのでしょうか」
孔子曰く「仁を求めて仁を行なうことができたのだから、なんのくやむところがあろう」
子貢は孔子の部屋から戻り、冉有にいった「師は衛の君を援けないだろう」

食を忘れて楽を聞く

zàiwénsháo(1)sānyuèzhīròuwèiyuē:“wéiyuèzhīzhì。”

《论语》述而篇第七-13

(1)韶:舜が作ったといわれる古典音楽。

素読文:

せいりてしょうく。三月さんげつにくあじらず。いわく、“はからざりき、がくつくることのここいたらんとは。”

解釈:

孔子はせいに滞在中、しょうをきかれた。そして三月の間それを楽しんで、肉の味もわからないほどだった。
孔子曰く“これほどすばらしい音楽があろうとは、思いもかけなかった”

慎むべきは斎、戦、疾

zhīsuǒshènzhāi(1)zhàn

《论语》述而篇第七-12

(1)齐:物忌み、祭祀の前に斎戒沐浴し、心を整えること。

素読文:

つつしところは、さいせんしつ

解釈:

孔子が慎んで対処したのは、斎戒さいかいと、戦争と、病気の場合であった。
幸にして、現代の日本ではあまり気にしなくてよさそうですが、隣国では『战』『疾』に不安がありそうです。

我が好むところに従う

yuē:“érqiúsuīzhíbiānzhīshì(1)wéizhīqiúcóngsuǒhào 。”

《论语》述而篇第七-11

(1)执鞭之士:行列の先頭の露払い役、卑しい仕事の例え

素読文:

いわく、とみにしてもとくんば、執鞭しつべんいえども、われこれさん。もとべからずんば、このところしたがわん。

解釈:

子曰く:“もし富が、人として進んで求むべきものならば、私はそれを得るために、喜んで行列の露払いでもやろう。だが、それが求むべきものでないなら、私は自分の好む道に従って人生を過ごしたい”

仕事に富貧貴賎はない、与えられた仕事ならば、露払いでもやる。しかしそれが求める仕事でなければ、自分で好む仕事をしたい。孔子は弟子と共に、仕官すべき君主を探す旅に出ますが、結局孔子の眼鏡に叶う君主は見つけられなかったということでしょう。