子曰:“居上(1)不宽,为礼不敬,临丧不哀,吾何以观之哉(2)。”
《论语》八佾第三-26
(1)居上:人の上に立つ
(2)何以观之哉:何の見所もない
素読文:
子曰く:“上に居て寛ならず、礼を為して敬せず、喪に臨んで哀しまずんば、吾何を以てか之を観んや。”
解釈:
孔子曰く“人の上に立って寛容でなく、礼を行なうのに敬意なく、葬儀にて悲しい気持になれない人間は、見込みがない。”
人の上に立つものほど寛容、敬意、哀悼の情が必要だということと理解しました。
子曰:“居上(1)不宽,为礼不敬,临丧不哀,吾何以观之哉(2)。”
《论语》八佾第三-26
(1)居上:人の上に立つ
(2)何以观之哉:何の見所もない
素読文:
子曰く:“上に居て寛ならず、礼を為して敬せず、喪に臨んで哀しまずんば、吾何を以てか之を観んや。”
解釈:
孔子曰く“人の上に立って寛容でなく、礼を行なうのに敬意なく、葬儀にて悲しい気持になれない人間は、見込みがない。”
人の上に立つものほど寛容、敬意、哀悼の情が必要だということと理解しました。
《论语》里仁第四-9
素読文:
子曰く:“士、道に志して、悪衣悪食を恥る者は、未だ与に議るに足らざるなり。”
解釈:
子曰く:“いやしくも道に志すものが、粗衣粗食を恥じるようでは、話相手とするに足りない。”
道を志すからには、貧乏してはいけない。という意味ではありません。
道を志すからには、貧乏を恥じて恥てはならない。清貧であれという意味です。
しかし道を修めた者が、良い働き口を得て物心共に豊かである、というのが理想の社会かと考えます。
デジタルデバイドという言葉が流行り始めている。最近情報の閲覧や入力がスマホなどのデジタル機器に対応する様になり便利になっている。その利便性の恩恵に預かるのは、生まれた時からデジタル機器が身の回りにある年代に限られるのではなかろうか?最初に手に入れたコンピュータはAppleIIという8bitCPU6502搭載のマシンだった私は、必ずしもデジタル弱者とは言えないと思っている。しかし最近、誤操作をしてしまうことが増えた。加齢のためではない、と断言したい。例えばメッセージに返事を入力している時に、やり直しをしようとして「取り消し」のボタンを押すと、返信ではなく受信メッセージが消えてしまった。返信作業中の取り消しは返信の取り消しと考えた。私にはこれが普通に思える。
デジタルデバイドというのは必ずしも、利用者側の問題ではない。
製品・システムの提供者側が「マシンフレンドリィ」に偏っている様に思う。「ヒューマンフレンドリィ」という言葉がしばしば使われ、種々工夫して来た。しかし最近は「マシンレンドリィ」に逆戻りしている様な気がする。
当然、現在製品やインターフェイスを設計するエンジニアは、生まれた時からデジタルデバイスに囲まれたデジタルネイティブだろう。彼らにとってマシンフレンドリィとヒューマンフレンドリィの境界が、我々世代と違うのかも知れない。
製品の検証チームに高齢者を参加させるべきと考えるが如何だろう?
このコラムは、2022年4月22日に配信したメールマガジン【中国生産現場から品質改善・経営革新】第1283号に掲載した記事です。
【中国生産現場から品質改善・経営革新】は毎週月・水・金曜日に配信している無料メールマガジンです。ご興味がおありの方はこちら↓から配信登録出来ます。
【中国生産現場から品質改善・経営革新】
「勝者はいつも答えを出そうとする。敗者はいつも問題点しか出さない」友人が紹介してくれた言葉だ。
文句ばかり言って行動を起こさない人は「敗者」と呼ばれてもやむを得ない。
問題に対して答え(解決方法)を見つけようとする人は「勝者」に一歩近づく。その上で解決行動を取らねば「勝者」にはなれない。
しかし問題点を出す人が必ずしも敗者とは言えないだろう。
問題点に気が付かない人は、解決行動には至らない。問題点を言って終わりにしたとき「敗者」が決定する。
したがって「問題点を出す」と「答えを出そうとする」は勝者の一連の行動と考えた方が良さそうだ。真の勝者は問題点を見つけ、その解決方法を考え、解決する、と言う一連の行動を取れる人と考えた方が良かろう。
もちろん人には得手・不得手がある。問題点しか出さない人も、解決方法を考える人、解決行動を起こす人とチームになれば「勝者」になることができる。
組織の中で敗者と勝者の色分けをするより、それぞれの力を発揮する「場」を作ることを考えた方が組織が活性化するはずだ。
このコラムは、2022年4月29日に配信したメールマガジン【中国生産現場から品質改善・経営革新】第1286号に掲載した記事です。
【中国生産現場から品質改善・経営革新】は毎週月・水・金曜日に配信している無料メールマガジンです。ご興味がおありの方はこちら↓から配信登録出来ます。
【中国生産現場から品質改善・経営革新】
《论语》八佾篇第三-25
(1)韶:舜が作った楽曲。
(2)美:外面的な美
(3)善:道徳的な善
(4)武:周の武王が作った楽曲
素読文:
子、韶を謂う、美を尽せり、又善を尽せり。武を謂う、美を尽せり、未だ善を尽さざるなり。
解釈:
孔子は舜が作った楽曲・韶を「美しく、善がある」と評した。
武王が作った楽曲を「形式的には美しいが善がない」と評した。
舜は堯から禅譲によって君主となった。一方武王は殷の紂王を武力で滅ぼして帝位についた。この差が「美」と「善」の評価になったようです。
顧客に不良品が流出した場合、当然改善対策を要求される。
この時注意しなければならないのは、流出対策と再発対策の違いだ。流出対策とは不良品が顧客(次工程)に流出しない様にする対策だ。一方再発対策は不良が再発しない様にする対策となる。
検査工程で不良を検出できないのであれば検査方法を変更するなり改善が必要となる。しかし「ダブルチェック」「検査員の再指導」などの対策は、あまり効果を期待できないだろう。
流出防止より再発防止の方が効果は高いはずだ。検査ではなく作業そのものを改善、もしくは設計を変更し不良が発生しない様にする。
検査で不良を除去するという考え方は、検査を完璧にするという課題を解決しなければならない。しかし不良を作らない(作業方法または設計を改善)様にすれば、流出防止は不要となるはずだ。
このコラムは、2022年3月23日に配信したメールマガジン【中国生産現場から品質改善・経営革新】第1270号に掲載した記事です。
【中国生産現場から品質改善・経営革新】は毎週月・水・金曜日に配信している無料メールマガジンです。ご興味がおありの方はこちら↓から配信登録出来ます。
【中国生産現場から品質改善・経営革新】
子语鲁大师(1)乐曰:“乐其可知也(2)。始作(3),翕如(4)也;纵(5)之,纯如(6)也,皦如(7)也,绎如(8)也,以成(9)。”
《论语》八佾篇第三-23
(1)大师:楽団長
(2)可知也:知ることができる
(3)始作:演奏を始めるとき
(4)翕如:多くの楽器が一斉に鳴る様子
(5)纵如:放つ
(6)纯如:調和のとれたさま
(7)皦如:明らかなさま
(8)绎如:続いて絶えないさま
(9)成:完成する
素読文:
子、魯の大師に楽を語りて曰く:“楽は其れ知るべきなり。始め作すに翕如たり。之を従ちて純如たり。皦如たり。繹如たり。以て成る。”
解釈:
孔子が魯の楽隊長に音楽について語った。
音楽には一定の決まりがあり、難しいことではない。
演奏の開始時には多くの楽器が一斉に鳴るようにする。
そして楽器の音色が調和されつつも、一つ一つの音色を際立たせつつ演奏が途絶えないようにする。このようにして指揮者、演奏者、聴衆が一体となることで、演奏が完結する。
《论语》八佾第三-22
(1)管仲:斉の宰相。姓は管。字は仲
(2)器:人の器の大きさ
(3)俭:倹約
(4)三归:三つの邸宅
(5)官事:家臣の仕事
(6)不摄:兼務をしない
(7)反坫:祝宴で盃を置く台
素読文:
子曰く、管仲の器は小なるかな。或ひと曰く、管仲は倹なるか。曰く、管氏に三帰有り。官の事は摂ず。焉んぞ倹なるを得ん。然らば則ち管仲は礼を知れるか。曰く、邦君は樹して門を塞ぐ。管氏も亦た樹して門を塞ぐ。邦君は両君の好みを為すに、反坫有あり。管氏も亦た反坫有り。管氏にして礼を知らば、孰か礼を知らざらん。
解釈:
孔子曰く:“管仲は人物が小さい”
ある人が訪ねた“それは管仲はつましいという意味ですか?”
孔子曰く:“つましいとは言えまい。三帰台というぜいたくな高台を作り、また、家臣をたくさん雇い、それぞれに兼任をさせなかった”
“では管仲は礼を心得て、例の様式に従ったのでしょうか?”
“そうとは言えまい。門内に塀を立てて目かくしにするのは諸侯の邸宅のきまりだが、管仲も大夫の身分でそれを立てた。また、酒宴に反坫を用いるのは諸侯同士の親睦の場合だが、管仲もまたそれをつかった。それで礼を心得ているといえるなら、誰でも礼を心得ているだろう”
孔子の管仲評価はかなり低かったようです。
タイトルから珍しく政治的な話かと期待(?)された方も有るかも知れない。
しかしヒトラー下のドイツとロシアの独ソ戦争を、女性狙撃兵たちの体験から語る小説「同志少女よ、敵を撃て」の中にある一節をご紹介したい。
「ナチスドイツはウクライナを奴隷化するために戦った。ソ連は目的のためにウクライナを奴隷化した」
小説中でウクライナ出身の少女狙撃兵が語った言葉だ。
著者の逢坂冬馬氏は本作「同志少女よ、敵を撃て」でアガサ・クリスティー賞大賞を受賞し作家デビューしている。本作は2021年11月の出版なので、現在報道されているロシアのウクライナ侵攻とは無関係だろう。
しかし本作でウクライナ出身の少女に語らせた「ナチスドイツはウクライナを奴隷化するために戦った。ソ連は目的のためにウクライナを奴隷化した」という一節は今のウクライナの状況を言い当てているのではなかろうか?
このコラムは、2022年5月2日に配信したメールマガジン【中国生産現場から品質改善・経営革新】第1287号に掲載した記事です。
【中国生産現場から品質改善・経営革新】は毎週月・水・金曜日に配信している無料メールマガジンです。ご興味がおありの方はこちら↓から配信登録出来ます。
【中国生産現場から品質改善・経営革新】
哀公(1)问社于宰我(2),宰我对曰:夏后氏(3)以松,殷人(4)以柏,周人(5)以栗。曰:使民战栗。子闻之,曰:成事(6)不说,遂事(7)不谏,既往(8)不咎。
《论语》八佾第三-21
(1)哀公:魯の国の君主
(2)宰我:姓は宰、名は予、字は子我
(3)夏后氏:夏王朝
(4)殷人:殷王朝
(5)周人:周王朝
(6)成事:出来てしまったこと
(7)遂事:済んでしまったこと
(8)既往:過ぎ去ったこと
素読文:
哀公、社を宰我に問う。宰我、対えて曰く、夏后氏は松を以てし、殷人は柏を以てし、周人は栗を以てす。曰く、民をして戦栗せしむ。子、之を聞きて曰く、成事は説かず、遂事は諫めず、既往は咎めず。
解釈:
哀公が宰我に社の神木についてたずねた。
宰我答えて曰く「夏の時代には松を植えた。殷の時代には柏を植えた。周の時代からは、栗を植えることになったが、それは人民を戦慄せんりつさせるという意味です」
孔子はこれを聞いて曰く「できてしまったことは、いっても仕方がない。やってしまったことは、いさめても仕方がない。過ぎてしまったことは、とがめても仕方がない」
あれこれと、罰を与えることで人々を治めることはできないと孔子は言いたかったのでしょうか。