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賢なるかな回也

子曰:“贤哉回也,一箪食,一瓢饮,在陋巷,人不堪其忧,回也不改其乐。贤哉回也。”

《论语》雍也第六-十一

huíは孔子の弟子・yánhuíの事。颜渊yányuānとも呼ばれる。
dān:竹でできた飯を盛る器
piko:柄杓
陋巷lòuxiàng:路地裏のあばら家、顔回の住まい。

素読文:
子曰く、けんなるかなかいや。一箪いったん一瓢いっぴょういん陋巷ろうこうり。人はれいにたえず。回や其のたのしみをあらためず。賢なるかな回や。

解釈:
顔回はなんという賢者だろう。一膳の飯を食べ、一杯の水を飲むだけ。あばら家に住まいしておれば、たいていの者は堪えられないだろう。顔回は学問を究める楽しみを変えない。顔回はなんという賢者だろう。

子貢が顔淵は一を聞いて十を知る才人ですと褒めたとご紹介しました。
一を聞いて十を知る

師匠である孔子も顔淵にはかなわないと言っています。
今週ご紹介するのは、その孔子が顔淵を褒めて言った言葉です。
貧しい暮らしを一向に苦にする様子もなく、研鑽を積む姿は求道者と言っても良さそうです。孔子は顔淵のそういう学問を究める姿勢を愛していたのでしょう。

一を聞いて十を知る

子谓子贡曰:“女与也孰愈?”对曰:“赐也何敢望回?回也问一以知十,赐也问一知二。”子曰:“弗如也!吾与女弗如也。”

《论语》公冶长5.9

は汝の意味。
huíは孔子の弟子・yánhuíの事。
は子贡の本名(姓・端木、名・賜)から

素読文:
子、こういてわく、なんじかいいずれかまされる。こたえて曰わく、や、何ぞあえて回を望まん。回や一を聞きてもって十を知る。賜や一を聞きて以て二を知る。子曰わく、かざるなり。われと女と如かざるなり。

解釈:
孔子が子貢しこうに尋ねました、
「お前と顔回がんかいとどちらが優れているか?」
子貢は、
「私など彼にとても及びません。彼は一を聞いて十を知る事が出来ますが、私は一を聞いて二を知るくらいがせいぜいです。」
と答え、孔子は、
「そのとおり、私もとても顔回には及ばない。私たちはとても彼には及ばないのだ。」
とおっしゃった。

「一を聞いて十を知る」聡明な人を称してこう言います。日本原来の言葉と思っていましたが、原典は論語です。

孔子一番の弟子・顔回(字名は子淵、別名顔淵)は、どちらかというと清貧にして学研の徒という感じです。顔回の求道の姿勢を孔子は高く評価していた様です。しかし孔子より先に夭折してしまう。
孔子は『顏淵死。子曰。噫。天喪予。天喪予。』(先進11.8)と嘆いています。

対する子貢は、弁が立ち高い職に就いています。
この孔子との問答でも、顔回は一を聞いて十を知ると讃えながら「自分は一を聞いて二を知ることができる」としっかりアピールしています。