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樊遅仁を問う

前回は司馬牛が孔子に「仁」を問うたのをご紹介しました。
「司馬牛仁を問う」

樊遅も孔子に「仁」とは何かと訪ねています。

fánchíwènzhìyuē:“mínzhȳjìngguǐshénéryuǎnzhīwèizhì。”
wènrényuē:“rénzhěxiānnānérhòuhuòwèirén。”

《论语 雍雅第六-22》

樊迟:孔子の弟子。

素読文:
 はんう。いわたみつとしんけいしてこれとおざく、知とし。
 じんを問う。いわく、仁者じんしゃかたきをさきにしてるをのちにすじんし。

解釈:
樊遅が「知」とは何かと問うた。孔子曰く:知あるものは人としての義を尽くし、神や先祖を大切にするが、神や仏に頼る様なことはしない。それが知者というものだ。
樊遅は「仁」とは何かと重ねて問うた。孔子曰く:仁者は困難なことを避けずに行い、損得は後に考える。これが仁者というものだ。

司馬牛仁を問う

「仁」について色々な人が孔子に尋ねています。

niúwènrényuē:“rénzhěyánrèn。”
曰:“yánrènwèizhīrén?”
子曰:“wéizhīnányánzhīrèn?”

≪论语≫颜渊第十二-3

司马牛:孔子の弟子。
讱:かたんず:言葉が慎重でなかなか出てこない様。

素読文:
司馬牛しばぎゅう、仁を問う。いわく、仁者じんしゃは其の言やかたんず。
曰く、其の言やかたんずる、これを仁とうべきか。
子曰く、これをすことかたし。これを言うことかたんずる無きをんや。
解釈:
司馬牛が孔子に仁を訪ねた。
孔子曰く「仁者は言葉が控えめである」
司馬牛が問う「言葉が控えめであれば、それだけで仁者でしょうか?」
孔子曰く「何事も行うことは難しい。したがって言葉が慎重にならざるを得ないのだ」

以前にご紹介した「剛毅木訥仁に近し」「言に訥、行に敏」にあるように、言葉よりも実践。仁者たるもの言葉だけでなく行動に責任を持つ。従って行動をする前に良い加減なことは言わないということでしょう。

言に訥、行に敏

先週ご紹介した剛毅木訥は仁に近し。に出てきたとつについてもう少し調べて見ましょう。

yuē:“jūnyánérmǐnxíng。”

《论语·里仁第四-24》

素読文:
子曰わく、君子はげんとつにして、こうびんならんと欲す。

解釈:
君子は口数は少なく、行動は俊敏でありたい。

知識があれば言葉は出ます。しかし知識はそのままでは役には立ちません。知識を生かす能力をつけなければならない。能力があっても行動しなければ成果はありません。
軽々しく言葉がでても、自分の言葉が行動に及ばないようでは仁者どころか君子とも言えません。

剛毅木訥

yuē:“gāngjìnrén。”

《论语》子路第十三-27

毅:guǒgǎn:勇敢で決断力がある。
木:质朴zhìpǔ:素朴な、質素な
yánchídùn:口数が少ない。

素読文:
子曰わく、ごうぼくとつは仁に近し。

解釈:
物事に屈しない、勇敢で決断力がある、飾り気がない、言葉少ない、そういう人が仁に近い。

剛毅つよきが故に憂えず、朴訥としていられる。ということでしょう。
気になるところは『剛毅木訥』が「仁」だとは言っていないところです。「仁に近し」としか言っていない。『剛毅木訥』だけでは足りないのでしょう。

3回にわたって『仁』について考えて見ました。
『孝悌』:親や目上の人に対する思いやり。
『巧言令色』:相手を立てるためというよりは、自己の利益を中心に考える利己心から生まれるモノでしょう。
『仁者不忧』:仁の徳があれば、あれこれ憂えることはない。

この中で『孝悌』は『剛毅木訥』に含まれない様な気がします。

『剛毅木訥』に『孝悌』を加えると『仁』になるのでしょうか。まだまだ道は遠い様です。

仁者憂えず

yuē:“zhīzhěhuòrénzhěyōuyǒngzhě。”

《论语》子罕第九-29

素読文:
子曰く、知者はまどわず。仁者はうれえず。勇者はおそれず。

解釈:
子曰く、知恵ある者はあれこれ迷わない。仁の徳ある者は憂えない。勇気ある者は懼れない。

知恵があれば正しい選択ができ、あれこれ迷うことはない。
徳があれば他者への思いやりを持てる。自己に向けた憂いの感情はなくなる。
勇気があれば恐れることはなくなる。

『仁者』とは、自己の憂いから自由になっている人のことだと言えるでしょう。
憂いは自分中心に考えるところから発生します。

以下のエントリーで『仁』について考えました。
『孝悌』は親や目上の人に対する思いやり。
『巧言令色』は相手を立てるためというよりは、自己の利益を中心に考える利己心から生まれるモノでしょう。

「仁」とは利己より利他を優先する思いやりの徳と考える事ができそうです。

巧言令色仁鮮なし

yuē:“qiǎoyánlìangxiǎnrén。”

《论语》学而第一-3

巧言:huāyǎnqiǎo
令色:tǎohǎodebiǎoqíng

素読文:
子曰く、こうげんれいしょくすくなしじん

解釈:
子曰く:言葉巧みに取り入りご機嫌をとる様な者は「仁」が少ない。

「仁」は論語の中では最高の徳として位置付けれています。
学而第一-2『孝悌也者,其為仁之本与?』と合わせると、
『孝悌』を務める者が仁者である。
『巧言令色』は仁者ではない。
ということになります。

徐々に仁者の実態が見えてきました。

仁者孝悌を務む

有子曰:“其为人也孝悌而好犯上者,鲜矣。不好犯上而好作乱者,未之有也。君子务本,本立而道生。孝悌也者,其为仁之本与?”

《论语》学而第一-2

有子:本名は有若。孔子の弟子です。論語に登場する回数は少ないですが、名前に「子」が付いているので、高弟の一人でしょう。

素読文:
有子曰わく:その人とりやこうていにして、かみおかすをこのむ者はすくなし。上を犯すことを好まずして、らんすを好む者はいまこれらざるなり。君子はもとつとむ。本立ちて道しょうず。孝悌なる者は、それじんすの本たるか。

解釈:
有子曰く:人柄が親思いで兄弟思いならば、目上の人に楯突く様なことを好む者は少ない。目上の人に楯突くことを好まない者であれば、世の中を乱す事を好む者はまずない。君子は本をしっかり努める。本がしっかりしていれば、人として生きる道がはっきりする。親を思い、兄弟を思うことが仁の本である。

義侠人の進む道を「仁義」といいます。「仁」は人の進むべき道と解釈すればいいでしょう。

人知らずして慍らず

子曰:“学而时习之,不亦说乎?有朋自远方来,不亦乐乎?人不知而不愠,不亦君子乎?”

《论语》学而第一-1

yuèshuōではなくyuè(楽しむ)の意味
yùn:憤る

素読文:
子曰く:学びて時にこれならう、またよろこばしからずや。ともえんぽうより来る有り、亦楽しからずや。人知らずしていからず、亦君子ならざるや。

解釈:
子曰く:学んで時にこれを復習する、学んだことが身につく。喜ばしいことではないか。心からの友人が遠方より訪ねてくる。楽しいことではないか。人に認められなくても憂えない。君子と言えるだろう。

論語の最初の一節です。
一般的には『shí』は『ànshíwēn』時にこれを復習する、という意味に解釈されます。個人的には「学びて時にこれを実践する」と解釈しています。

日本語でも朋あり遠方より来る。亦楽しからずや。とよく言いますが、最後の人知らずして慍らず、亦君子ならざるや。を味わい深く感じます。
人に認められようと大言壮語するより、ひたすら己の道を求めて研鑽する求道心を持ちたいものです。

【追補】
『有朋自遠方来』を「朋遠方より来る有り」と訳しました。
Google検索をして見ると、日本では「朋有り遠方より来る」と訳す方が多い様です。
個人的には「朋がある」ことより「朋が遠方から来る」ことの方が楽しいと思うので「朋遠方より来る有り」と訳しました。

また検索中に、「学んで時に之を習う」と「人知らずして慍らず」の間に「朋遠方より来る有り」と異質なモノが挟まってるのに疑問を持つ意見を発見しました。
その方は
「学んで時に之を習う」のは「朋が遠方より来て語り合う」ことと同じくらい楽しいものだ。
と解釈されていました。こちらの方が腑に落ちます。

学びて思う

子曰:“学而不思则罔,思而不学则殆。”

《论语》为政第二-15

wáng:无知
dài:疑惑

素読文:
子曰く:学びて思わざればすなわくらし。思いて学ばざれば則ちあやうし。

解釈:
書を読むだけで自ら考えなければ、物事ははっきりしない。考えるだけで学ばなければ、確かなものにはならない。
歴史や書物から学ぶだけではなく、自の体験に照らして考えることにより、実践的な知恵となる。つまり「学びて思えば殆うからず」ということです。

君子同じて和せず

子曰:“君子和而不同,小人同而不和。”

《论语》子路第十三-23

:于事物来说是“多样性的统一”。而对于人来说,“和”是和于观点与意见,是观点与意见的多样性统一。
tóng:同质事物的绝对同一,即把相同的事物叠加起来。

素読文:
わく、君子してどうぜず。小人同じて和せず。

解釈:
君子は他人とよく調和してやっていくが、自分の立場を忘れて、他人にひきずられたりはしない。
小人は他人にひきずりまわされたり、へつらったりするが、自分の立場を守りながら、他人と調和してやってゆくことはできない。

私は『和而不同』と『同而不和』をこんなふうに定義しています。
和して同せずの人たちはチーム。すなわち目的と目標を共有し互いに貢献しあうモチベーションの高い人の集まり。
同じて和せずの人たちはグループ。すなわち場所と時間を共有しお互いに盛り上がるテンションの高い人の集まり。

同じて和せずの人たちは、仲がいいように見えます。互いに思いやりを持ち、気持ちよく過ごせるように気を使います。

和して同せずの人たちは、仲がいいようには見えません。時として激しく議論し対立もします。しかし自分たちの目的や目標を達成するために各自の責任を果たします。

会社の帰りに居酒屋に集まり、会社や上司の愚痴を言いながら憂さ晴らしをするのが「動じて和せず」の人たち。
仕事で目的目標を達成するために貢献しあうのが「和して同ぜず」の人たち。
ちょっと言い過ぎでしょうか(笑)