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師に譲らず

yuē:“dāngrénràngshī。”

《论语》卫灵公第十五-36

素読文:
わく:“仁にたりては、にもゆずらず。”

解釈:
子曰く:“仁の道を成すためには、師にも譲る必要はない。”

人として仁を極めようとするならば、師も弟子も関係ない。上司も部下も関係ない。ということですね。

仲弓仁を問う

zhònggōng(1)wènrényuē:“chūménjiànbīn(2)使shǐmínchéng(3)suǒshīrénzàibāngyuànzàijiāyuàn。”
zhònggōngyuē:“yōng(4)suīmǐn(5)qǐngshì。”

《论语》 颜渊第十二-2

(1)仲弓:孔子十哲の一人。姓はぜん名はよう
(2)大宾:君主を訪問した隣国の賓客。
(3)大祭:君主の宮廷で行われる祭祀。
(4)雍:仲弓のこと。
(5)不敏:愚か者。自分を謙遜していう言葉。

素読文:
ちゅうきゅうじんを問う。
子曰わく;“もんいでてはたいひんを見るがごとくし、たみ使つかうにはたいさいくるがごとくす。おのれほっせざるところは、人にほどこすことなかれ。くにりてもうらく、いえりてもうらし、と。”
ちゅうきゅう曰わく:“ようびんなりといえども、こうこととせん、と。”

解釈:
仲弓仁を問う。
子曰く:“社会に出て人と交わる時には、地位の高下を問わず、貴賓にまみえるように敬虔であること。人民に仕事を課す時には、神仏を祭る時のように、かしこまること。自分が人にされたくないことを、人に対して行なってはならない。もしそれだけのことができたら、国に仕えても、家にあっても、人から怨みを買うことはない。”
仲弓曰く:“至らぬ者ですが、この教えを一生守って行きます。”

“己所不欲。勿施於人(己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。)”は《论语 卫灵公第十五-24》で子贡も言っています。

智・仁・荘・礼

yuē:“zhìzhī(1)rénnéngshǒuzhīsuīzhīshīzhīzhìzhīrénnéngshǒuzhīzhuāngzhī(2)mínjìngzhìzhīrénnéngshǒuzhīzhuāngzhīdòngzhīwèishàn。”

《论语 卫灵公第十五-33》

(1)知及之:知識、学識がその地位にふさわしいこと。
(2)涖之:これのぞむ。民に臨む、という意味。

素読文:
子曰わく:“これおよぶも、じんこれまもらざれば、これいえども、かならこれうしなう。これおよび、仁能く之を守るも、そうもって之にのぞまざれば、すなわたみけいせず。知之に及び、仁能く之を守り、荘以て之に涖むも、之を動かすにれいを以てせざれば、いまからざるなり。”

解釈:
孔子曰く:“知識、学識が為政者としての地位を得るに十分でも、仁徳をもってそれを守ることができなければ、得た地位は必ず失われる。知識、学識が十分であり、仁徳をもって地位を守り得ても、荘重な態度で人民に臨まなければ、人民は敬服しない。知識、学識が十分であり、仁徳をもって地位を守ることができ、荘重な態度で民に臨んでも、人民を動かすのに礼をもってしなければ、まだ真に善政であるとはいえない。”

為政者として世を治めるためには智・仁・荘・礼をもって民に接する事が必要である、と理解しました.

曲则全

老師は《道徳経》の中で次のように言っている。

quánwǎngzhíyíngxīnshǎoduōhuò

老子:《道德经》第二十二章

読み下し文に直すと
きょくなればすなわまったし、がればすなわなおし、くぼめばすなわち、やぶるればすなわ新たなり。少なければすなわち得られ、多なればすなわち惑う」
となる。

曲がった木は役に立たず切られることなく命を全うする。
身をかがめていれば真っ直ぐに伸びることができる。
窪地のように凹んだ所には水が満ちる。
ボロボロになれば新しくできる。
持っているモノが少なければ得るものがある。
持ってるモノが多ければ惑う。

逆説的な言い方だが、これが世の中の真理ではないだろうか?

謙虚にしていれば上から重用される。
何も知らなければ素直に学ぶことができる。
捨てることで新たなモノが手に入る。
手が空いていればチャンスを掴める。
たくさん仕事があっても力が分散し成果が上がらない。

仕事がない時にボヤいていないで、次の仕込みをする。暇な時こそ飛躍のチャンスだ。
私の友人は金融危機の時に徹底的に改善活動をした。例えば現場のレイアウトを変えて二機あったエレベータを一機で賄えるようにすることで、エレベータの保守点検費用を半減する。このような改善活動の積み重ねで年間300万元の間接費用が節約ができ、筋肉質の経営体質になった。


このコラムは、2018年4月13日に配信したメールマガジン【中国生産現場から品質改善・経営革新】第653号に掲載した記事に加筆しました。

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何ぞ仁を事とせん

gòngyuēyǒushīmínérnéngzhòngwèirén
yuēshìrénshèngyáoshùn(1)yóubìngzhū(2)rénzhěérrénérrénnéngjìn(3)wèirénzhīfāng

《论语 雍也第六-30》

(1)尧、舜:中国古代の伝説の帝王。儒家にとって『榜样』(お手本)とすべき聖人と言われている。
(2)诸:『之于』の合わせ文字。「これ」と読む。
(3)近取譬:身近なところで自分自身の事として考えること。

素読文:
こう曰わく:“ひろたみほどこして、しゅうすくうもの有らば、何如いかん。仁とうべきか。”
子曰わく:“なんぞ仁をこととせん。かならずせいか。堯舜ぎょうしゅんそれこれを病めり。れ仁者はおのれたんとほっして人を立て、己たっせんと欲して人を達す。ちかたとえを取る。じんほうと謂うべきのみ。”

解釈:
子貢曰く“もし広く民に施しをし、民衆を救う者があれば仁者と言えるでしょうか”
孔子曰く“それができれば仁者どころではない、聖人といえよう。堯帝や舜帝のような聖天子ですら心を悩ましたものだ。仁者は自分が身を立てたいと思えば人の身を立て、自分が達成したいと思えば、人を達成させる。ただそれだけの事を日々実践するのが仁の道というものだ。”

功成り名を遂げる人は立派な人です。仁者とも言えるでしょう。さらに自分だけではなく周りの人をも功成り名を遂げさせる人は、仁者どころか聖者と言えるでしょう。

小人にして仁なる者あらざる

yuē:“jūnérrénzhěyǒuwèiyǒuxiǎorénérrénzhě。”

《论语 宪问第十四-6》

素読文:
子曰わく:“君子にして不仁なる者有らんか。いまだ小人にして仁なる者有らざるなり。”

解釈:
子曰く:“君子であるが仁者でない者はいるかもしれない。しかし小人は皆仁者ではない。”

仁の心があってもその行動に仁を発揮できない者はいるかもしれない。しかし仁の心がない者が仁者であることはない。という意味と理解しました。

優先席に座ってスマホに熱中して目の前の老人、妊婦に席を譲らない者は「小人」と言わざるを得ません。
目の前に老人、妊婦に「席を譲らなければ」と思いつつ行動が起こせない人も大勢いると思います。仁者であろうと思うならば行動を起こさねばなりません。

勇を好みて貧を疾む

yuē:“hàoyǒngpínluànrénérrénzhīshènluàn。”

《论语 泰伯第八-10》

素読文:
わく、ゆうこのみてひんにくむはらんす。ひとにしてじんなる、これにくむこと已甚はなはだしきはらんす。

解釈:
勇を好んで貧を憎む者は世の秩序を乱す。不仁を甚だしく憎む者も世の秩序を乱すことがある。

孔子は『勇而无礼则乱』《论语 泰伯第八-2》とも言っています。『勇』は使い方を間違うと世の秩序を乱す。仁なき者を極端に糾弾する風潮も世の秩序を乱す。ということでしょうか。

『貧』をなくそうと勇を持って世の中を変えた。しかし貧富の差はむしろ拡大してしまった。
孔子は2500年後が見えていたのでしょうか。

我、力の足らざる者を見ず

yuē:“wèijiànhào(1)rénzhěrénzhěhàorénzhěshàngzhīrénzhěwéirén使shǐrénzhějiāshēnyǒunéngyòngrénwèijiànzhěgài(2)yǒuzhīwèizhījiàn。”

《论语 里仁第四-6》

(1)hào:四声の「好」好む
(2)盖:あるいは

素読文:
わく:“われいまじんこのむ者、じんにくむ者を見ず。仁を好む者は、もっこれくわうるし。不仁をにくむ者は、それ仁をさん。不仁者をしてそのくわえしめず。よく一日いちじつも其ちからを仁にもちうることらんか。我未だちかららざる者を見ず。けだし之有らん。我未だ之を見ざるなり。”

解釈:
子曰く「私はこれまで、まことに仁を好む者、真に不仁を憎む者を見たことがない。真に仁を好む者は自然に仁を行なう者で、まったく申し分がない。不仁を憎む者も、つとめて仁を行なうし、また決して不仁者の悪影響をうけることがない。その日その日を仁にはげめばいいのだ。たった一日の辛抱さえできない者はいだろう。私はまだ、それさえもできないような者を見たことがない。」

仁者になるためには、小さな徳を毎日、毎日積み重ねれば良い、ということですね。

孟武伯問う

mèng(1)wèn:“ rén?” yuē:“zhī”。yòuwèn。 yuē:“yóu(2)qiānshèngzhīguó(3)使shǐzhì(4)zhīrén”。
qiú(5)?” yuē:“qiúqiānshìzhī(6)bǎishèngzhījiā(7)使shǐwéizhīzǎi(8)zhīrén。”
chì(9)?” yuē:“chìshùdài(10)cháo(11)使shǐbīn(12)yánzhīrén” 。

《论语 公冶长第五-8》

(1)孟武伯:魯の大夫、もう懿子いしの子。
(2)由:孔子の弟子。姓は仲、名は由。あざなは子路。
(3)千乘之国:兵車を千台持っている規模の諸侯の国。
(4)赋:兵
(5)求:孔子の弟子。冉有ぜんゆう、名は求。字は子有。
(6)千室之邑:数千戸程度の町
(7)百乘之家:兵車を100台くらい持っている卿大夫の家
(8)宰:卿大夫の家の長官
(9)赤:孔子の弟子。姓は公西こうせい、名はせき、字は子華。
(10)束带:礼服に締める帯。朝廷で礼服を着用すること。
(11)朝:朝廷
(12)宾客:外国の賓客

素読文:
もうはくう:「子路しろじんなるか。」わく:「らざるなり。」またう。子曰わく:「ゆうや、せんじょうくにそのおさめしむべきなり。其仁を知らざるなり。」
きゅう何如いかん。」子曰わく:「求や、千室せんしつゆう百乗ひゃくじょうの家、これさいたらしむべきなり。其仁を知らざるなり。」
せきや何如。」子曰わく:「赤や、束帯そくたいしてちょうに立ち、賓客ひんかくと言わしむべきなり。其仁を知らざるなり。」

解釈:
孟武伯が問う「子路は仁者でしょうか?」孔子曰く「子路が仁者かどうかはわからない」再び問う。孔子曰く「子路は、千乗の国の軍を治めることはできよう。しかし仁者かどうかはわからない。」
「では子有は仁者でしょうか?」「子有は千戸の邑(町)の代官や百乗の家の宰相を務めることができよう。しかし仁者かどうかはわからない。」
「では子華は仁者でしょうか?」「子華は式服を着け、宮廷で外国の賓客と話し合うことはできよう。しかし仁者かどうかはわからない。」

論語の中で孔子はしばしば人物評を口にしています。この節では子路、子有、子華の3人の弟子が仁者であるかどうかを問われ、答えています。3人の弟子の順位をつけるとすれば、子路:千乗の国の総裁。子有:百乗の町の総裁。子華:朝廷の官吏。ということでしょうか?しかし3人とも仁者であるかどうかはわからない、と答えています。当然3人とも孔子の高弟なので仁者であると考えても良いでしょう。

人には仕事の向き不向きがありそれぞれに能力を発揮する職位がある。しかし仁者かどうかを決定するのはその人の職位によるものではない。孔子はこういうことを孟武伯に伝えたかったのではないでしょうか?

仁者は騙せるか?

zǎi(1)wènyuērénzhěsuīgàozhīyuējǐngyǒurényāncóngzhīyuēwéiránjūnshì(2)xiàn(3)wǎng(4)

《论语 雍也第六-26》

(1)宰我:姓は宰、名は予、字あざなは子我。孔門十哲のひとり。
(2)逝:行かせる。
(3)陷:井戸の中へ入らせる。
(4)罔:だます。

素読文:
さいいてわく、仁者はこれげてせいに仁りと曰うといえども、それこれしたがわん。子曰く、なんれぞそれしからんや。君子はかしむべきなり。おとしいるべからざるなり。あざむくべきなり。うべからざるなり。

解釈:
宰我問いて曰く:「仁者は、もしも井戸の中に人が落ちたと騙したら、すぐ行って井戸に飛び込むだとろううか?」
孔子曰く:「どうしてそんなことをしよう。君子をだまして井戸まで行かせることはできる。しかし、おとし入れることはできない。人情に訴えてあざむくことはできても、正しい判断力を失わせることはできないのだ」

宰我は孔子の弟子の中でも弁の立つ人と言われている様です。孔子に向けた宰我の問いは、議論のための議論と感じてしまいます。