水魚の交わり


 「我に孔明あるはなお魚の水あるが如し」三国志の劉備が諸葛孔明を称して言った言葉である。

魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備が活躍した三国志の時代、劉備には関羽、張飛という勇将がいたが、作戦参謀たる人財がいなかった。誰にも仕官せず野にあった諸葛孔明を三顧の礼をもって迎え入れる。その後の諸葛孔明の活躍は三国志にある通りだ。

蜀の劉備に諸葛孔明がなければ、魏か呉のどちらかに蜀は滅ぼされ三国志は書かれなかっただろう。

劉備の劉備たる所以は、義兄弟・関羽、張飛と君臣水魚の諸葛孔明がいたからだと思う。

私が私であることは,私自身で決められることではない。
両親をはじめとする先祖があって私があり、上司や部下、友人、仕事関係の人々などとの関係によって、私が存在する。

人類にとって酸素があることが当たり前である。魚にとって水があることが当たり前だ。しかしその当たり前のおかげで、人も魚も生きることができる。当たり前を感謝しなければならない。


このコラムは、2019年5月6日に配信したメールマガジン【中国生産現場から品質改善・経営革新】第819号に掲載した記事に加筆修正しました。

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