亡き弟の姿胸に、電動車いす開発40年 京都の技術者


 進行性の難病だった幼い弟のため、父と電動車いすを作った兄がいた。弟は19歳で世を去ったが、兄は40年たった今も車いすを作り続ける。

 「オメガ・スリー」。ジョイスティックを指で傾けると六つのタイヤが動き出し、約10センチの段差を軽々と乗り越えた。悪路にも対応した機動性と安定性に乗り心地の良さを兼ね備えた電動車いすだ。

 作ったのは京都府宇治市で有限会社「アローワン」を経営する西平哲也さん(58)。社員と2人で、車いすをオーダーメードする。室内型の「くるくるマウ」、座席が床まで下がる「エフ・エックス」もある。障害の状態に合わせた特注のため1台200万円以上するが、脳性まひや筋萎縮性側索硬化症の人たちを中心に全国で約200人が利用している。

 1967年、九つ年下で当時6歳だった弟守儀(もりよし)さんが全身の筋力が低下する筋ジストロフィーと診断された。3年後には自力で車いすを動かせなくなった。電動車いすは高価な輸入車しかなかった時代、工業高校に通っていた西平さんは木材加工職人の父と一緒に開発に乗り出した。

 室内で使うにはシートの高さが変わらなければ不便だ。そこでシートの昇降やリクライニング機能をつけた。病状に合わせて10号機まで作り、守儀さんは亡くなる直前までわずかに動く指で車いすを操り、趣味の絵を描いた。

 西平さんは弟の死後、担当だった理学療法士に「必要としている人は他にもいる」と励まされ、車いすを作り続けた。しかし、東京・深川で会社は98年に経営が行き詰まった。知人の紹介で福祉機器販売会社の研究拠点があった宇治市に移り、修理と改造を主にして再出発した。

 5年前、堺市内で開かれた福祉機器の展示会で、大阪市西淀川区の福祉コンサルタント栂(とが)紀久代さん(58)と出会ったことが転機となり、新車づくりを再び始めた。

(asahi.comより)

 西平氏にとっては酷な言い方かもしれないが,弟さんの難病のおかげで天職に就けたとは言えないだろうか.難病の弟のために,高校生の時から車椅子を造る.大学でも機械工学科で,車椅子の研究をしている.そして卒業してからも一貫して車椅子に関連した仕事をしてこられた.

利用者に対する愛情があるから,素晴らしい製品を作ることができる.
その製品の一つ一つは,彼の一生をかけた天職によるものだ.そして弟の夢を,他の車椅子利用者に託す希望だ.

お金儲けのために,何かを造ろうというのとはまったく方向性の違う事業だ.お金儲けが卑しいものだというつもりはない.しかし,まず困っている人を助ける.そしてそれが収入となる.これが本来の順番だと思うのだ.

○○が売れそうだから,工場を建てる.というよりは,○○で困っている人がいるから工場を建てる,というアプローチの方が,人々の共感を得られる.

どのように考えようが,それはそれで,その人の人生だ.
しかし自分の人生ならば,仕事そのものが夢であり,人々から共感を得て支援される仕事に就きたいと考えている.

西平氏は「夢が叶う魔法の翼―電動車イスは移動の自由だけじゃなく、心の自由も与えてくれた!」という本を書かれている↓

アマゾンの読者書評欄には,西平氏の車椅子ユーザと思われる方の書評もあり胸を打たれた.

車椅子ユーザは,オフィスで働こうと思っても,コピーすら思うように取れない.そういうことが健常者には分からない.西平氏の車椅子には,座席の高さを上昇下降する機能もある.これでコピー機に原稿を載せ,コピーをとることができるようになる.

お客様の要求や言葉にならない願望を実現し,お客様の役に立とうとする事により,初めてお客様や社会から必要とされる企業になることが出来る.


このコラムは、2011年1月10日に配信したメールマガジン【中国生産現場から品質改善・経営革新】第187号に掲載した記事を修正・加筆しました。

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