子曰:“学而时习之,不亦说乎?有朋自远方来,不亦乐乎?人不知而不愠,不亦君子乎?”
《论语》学而第一-1
说:说ではなく悦(楽しむ)の意味
愠:憤る
素読文:
子曰く:学びて時に之を習う、亦説ばしからずや。朋遠方より来る有り、亦楽しからずや。人知らずして慍らず、亦君子ならざるや。
解釈:
子曰く:学んで時にこれを復習する、学んだことが身につく。喜ばしいことではないか。心からの友人が遠方より訪ねてくる。楽しいことではないか。人に認められなくても憂えない。君子と言えるだろう。
論語の最初の一節です。
一般的には『时习』は『按时温习』時にこれを復習する、という意味に解釈されます。個人的には「学びて時にこれを実践する」と解釈しています。
日本語でも朋あり遠方より来る。亦楽しからずや。とよく言いますが、最後の人知らずして慍らず、亦君子ならざるや。を味わい深く感じます。
人に認められようと大言壮語するより、ひたすら己の道を求めて研鑽する求道心を持ちたいものです。
【追補】
『有朋自遠方来』を「朋遠方より来る有り」と訳しました。
Google検索をして見ると、日本では「朋有り遠方より来る」と訳す方が多い様です。
個人的には「朋がある」ことより「朋が遠方から来る」ことの方が楽しいと思うので「朋遠方より来る有り」と訳しました。
また検索中に、「学んで時に之を習う」と「人知らずして慍らず」の間に「朋遠方より来る有り」と異質なモノが挟まってるのに疑問を持つ意見を発見しました。
その方は
「学んで時に之を習う」のは「朋が遠方より来て語り合う」ことと同じくらい楽しいものだ。
と解釈されていました。こちらの方が腑に落ちます。