職業人としての誇り


 先週のニュースからに読者様からコメントをいただいた.

※Z様のコメント
こんばんわ、198号は読んでいて目頭が熱くなりました。

僕的な解釈であれば、無理をするのは「滅私奉公」「国のため」「会社のため」ではなく、職業人としての使命感だと思います。とても被災地、それも原発などの危険な場所へ乗り込みを、日本人であっても「国のため」・・・とは解釈できません。
そうすると林さんのおっしゃられる「活私奉公」は、中国人に限ったことではないと思います。

違うとすれば、日本人と中国人とで、潜在的な気持ちがどこまで顕在化されるかの違いかと思います。

実は先週のコラムは,私自身が目頭を押さえながら書いた.

定年前の電力会社社員が,静かに「未来の原子力発電のために行く」と語って福島原発に出かけるのは,「職業人としての誇り」を置いては説明できないと私も思っている.

疲労の極限を越えて,被災地で活動をしている自衛官,消防庁員,警察官,全ての人々が「職業人としての誇り」を賭けて,戦っている.

その「職業人としての誇り」とは,仕事を通して成長し自己実現を果たそうとしている人だけが持てるモノだ.
仕事を通して成長する.仕事を通して自己実現することが「活私」だ.自分を活かす事で,会社や社会に貢献することを「活私奉公」と名付けた.

幕末から戦後まで,日本は「滅私奉公」の人々に支えられてきた.しかし今の日本で「滅私奉公」と言って納得する人は少ないだろう.

ボランティアとして被災地に向かう人々も「滅私奉公」ではないと思う.彼らを動かすのは,職業人としての誇りではないかもしれない.しかし,止むに止まれぬ情熱を突き動かすのは「日本人としての誇り」であり,日本人として自己実現を果たそうという「活私」だ.

「他人の役に立ちたい」と渇望すること自体が人間としての「活私」であり,その行動が結果として「活私奉公」になっていると考えている.

では,中国人の他人を思いやる力は,潜在的なものなのだろうか?

私の観察によると,彼らの「他人の役に立ちたい」という思いが我々よそ者に向けられないだけだ.しかしそれは,我々が「よそ者」であり続けるところに問題が有るのだ.
中国人を変えようと思っても変わらない.我々が変わらなければならない.

Z様はご自身のメールマガジンで仙台に一人娘を留学させている父親からの手紙を紹介しておられる.
父親は一人娘を心配していたが,彼女は周りの被災者から一人ぼっちでは心細いだろうと,特別の配慮を受けている.彼ら父娘にとって,被災地の人々は「よそ者」ではなくなったはずだ.

「中国人従業員がどうしたら一生懸命働いてくれるか」と考えるのではなく,「どうしたら中国人従業員が幸せになれるのか」を経営者は考えなくてはならない.

「リストラなしの『年輪経営』」塚越寛著


このコラムは、2011年4月4日に配信したメールマガジン【中国生産現場から品質改善・経営革新】第199号に掲載した記事です。

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