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仁に生きれば餓死するも怨みなし

rǎnyǒu(1)yuē(2)wèiwèijūn(3)gòngyuēnuòjiāngwènzhīyuē(4)shū(5)rényuēzhīxiánrényuēyuànyuēqiúrénérrényòuyuànchūyuēwèi

《论语》述而第七-15

(1)冉有:孔門十哲のひとり。姓はぜん、名はゆうあざなは子有。
(2)ふう:孔子の尊称。
(3)卫君:衛の君主、しゅつこう
(4)伯夷:殷代末期の孤竹国の王・亜微の長男
(5)叔齐:殷代末期の孤竹国の王・亜微の三男

素読文:
冉有ぜんゆうわく、ふうえいきみたすけんか。こう曰わく、だくわれまさこれを問わんとす、と。りて曰わく、はくしゅくせい何人なんぴとぞや。曰わく、いにしえ賢人けんじんなり。曰わく、うらみたるか。曰わく、仁を求めて仁を得たり。又何をか怨みん。出でて曰わく、夫子は為けざるなり。

解釈:
冉有が問う:“夫子は衛の君を援けられるだろうか”
子貢曰く:“よろしい。私がおたずねしてみよう”
子貢は孔子の室に入ってたずねる:“伯夷・叔斉はどういう人でしょう”
孔子曰く:“古代の賢人だ”
子貢曰く:“二人は自分たちのやったことを、あとでくやんだのでしょうか”
孔子曰く:“仁を求めて仁を行なうことができたのだから、なんのくやむところがあろう”
子貢は孔子の部屋を出て冉有に曰く:“夫子は衛の君をお援けにはならない”

この項は、長らく意味がわかりませんでした。渋沢栄一の「論語の読み方」を読んで理解できました。

冉有は当時衛に仕官していた。英霊公の後目を巡って蒯聵かいかいとその息子・ちょう(出公)の親子間で紛争が起きていた。冉有はこの紛争を収めることはできないかと孔子に相談したいが、直接相談せずに子貢に孔子は衛を助けてくれるだろうかと聞いた。子貢は孔子に直接衛のことを聞かず、昔王位継承争いを嫌って国を離れた伯夷・叔斉兄弟のことを訪ねている。伯夷・叔斉兄弟は人里離れたところに隠棲するが餓死してしまう。孔子はこの二人は仁者として生きることができたのだから、何も後悔はしていないだろうと答えている。それを聞いた子路は冉有に「孔子は衛の争いに口出ししないだろう」と言っている。

子路は直接問題を聞くのではなく、今起きている問題を過去の問題になぞらえて孔子に質問し、答えを得ています。さすが子門十哲の一人です。
しかし子路はこの衛の紛争に巻き込まれ殺されてしまうのです。

芸に游ぶ

yuē:“zhìdào(1)rényóu(2)。”

《论语》述而第七-6

(1)德:道を心の中に貫徹し失うことがないこと。
(2)艺:身分あるものに必要とされた6種類の基本教養。礼(礼節)・楽(音楽)・射(弓道)・御(馬術)・書(文字)・数(数学)の六芸。

素読文:
子曰わく、みちこころざし、とくり、じんり、げいあそぶ。

解釈:
人としての道に志し、徳を守り、仁を行いの元として、六芸を学ぶことに喜びを見出したい。
「芸に游ぶ」を息抜きに芸事を楽しむ、と解釈するよりは、自らの教養を高めることに喜びを見出す、と解釈する方が論語らしいと感じます。

仁者の謙遜

yuē:“ruòshèngrén(1)gǎn(2)wéizhīyànhuìrénjuànwèiyúněr(3)!”
gōng西huáyuē:“zhèngwéinéngxué。”

《论语》述而第七-34

(1)岂:「豈」どうして〜か「あに」と訓ずる。
(2)抑:『只不过』の意味。「そもそも」と訓ずる。
(3)云尔:『这样说』の意味。「しかいう」と訓ずる。

素読文:
子曰わく、せいじんとのごときは、すなわわれあにあえてせんや。そもそもこれまなびていとわず、人をおしえまざるは、すなわ云尔しかいううべきのみ。公西こうせいわく、まさただ弟子ていしまなあたわざるなり。

解釈:
「聖とか仁とかいうほどの徳は、私には及びもつかないことだ。ただ私は、その境地をめざしてあくことなく努力している。また私の体験をとおして倦むことなく教えている。ただそれだけが私の身上だ」と孔子は簡単に言っているが、孔子のいう「ただそれだけ」が我々凡夫には到底及ばないことだ。

素読には『wéizhīyàn』を「まなびていとわず」としましたが、「していとわず」と解釈することもできます。「聖と仁をなして厭わない」と解釈した方が理解しやすいでしょう。

万人から聖人、仁者と尊敬される孔子が謙遜して「われあにあえてせんや。」と言っています。これが本当の仁者です。

仁は遠からず

yuē:“rényuǎnzāirénrénzhì。”

《论语》述而第七-29

素読文:
子曰わく:“仁とおからんや。我仁をほっすれば、ここに仁いたる。”

解釈:
仁とは遠くにあるものでは無い、切実に求めればそこに仁はある。

下村湖人の「論語物語」では孔子が以下の様に言っています。

「元来、仁というものは、そんなに遠方にあるものではない。遠方にあると思うのは、心に無用の飾りをつけて、それに隔てられているからじゃ。つまり、求める心が、まだ真剣ではないから、というより仕方がない。」

下村湖人著「論語物語」 P63

「仁」とは自分の外にあると考えると、青い鳥を探す子どもの様に、なかなか見つけることができません。自分の心の中に「仁」があると考えれば、それを育てることができます。