以前「道具」というテーマで記事を書いた。今読み返してみると、随分そっけない書き方だ。今回はもう少しこってり書いてみようと思う。
モノに魂を見る、というのは日本人特有の民族性ではないだろうか。針供養など使い古した道具が供養され神になる、という精神性を他の国では寡聞にして聞いた事がない。
日本の文化というのは民族の均一性を土台としている。したがって神が複数あることを恐れない。実際日本には「八百万(やおよろず)の神」がおわす。仏教に「山川草木悉皆仏性」という言葉があるが、自然やモノに神が宿るという考え方をしている。
一方一神教の世界では神が複数存在することそのものが脅威である。繰り返し行われている宗教戦争を見れば一目瞭然だ。ロボットが神を冒涜する存在だと言う議論は我々日本人には理解できない。創造主以外が人間的な物を創り出すことに宗教的忌避を感じるのだろう。
彼らにとっては神は唯一無二の絶対なるものだ。したがって道具に神性など見出すはずはない。
日本のモノ造りを支えてきたのが、この「道具に神が宿る」という精神性ではなかろうか。日本のモノ造りががまだまだ優位性を保っているのは、「モノを造る道具が作れる」というところにあると考えている。
生産設備が作れる、生産設備を作るための設備が作れる。という競争優位点はまだ日本国内に残っていると考えている。これらのモノ造りの現場力は日本の文化が背景となって育て上げられたモノだと思う。
日本的モノ造りの心が外国に伝わってもその国の文化に沿って独自の形で進化定着することになるだろう。今我々が見ている中国の生産現場はまだまだ物真似の段階である。日本的モノ造りの心が中国でどのように進化するかを知るには、あと10年20年の時間が必要だろう。
その間日本国内に残っているモノ造り、残さなければならないモノ造りを更に進化させなければならない。日本が忘れかけているモノを進化させなければならない。
このコラムは、2009年5月25日に配信したメールマガジン【中国生産現場から品質改善・経営革新】第99号に掲載した記事です。
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