子曰:“奢则不逊,俭则固;与其不逊也,宁固。”
《论语》述而篇第七-35
素読文:
子曰く、奢れば則ち不孫、倹なれば則ち固なり。其の不孫ならんよりは、寧ろ固なれ。
解釈
孔子曰く“奢れる人は不遜になりがちであり、謙虚な人は卑屈になりがちだが、どちらを選ぶなら、不遜であるよりは、まだしも卑屈な方がいい”
子曰:“奢则不逊,俭则固;与其不逊也,宁固。”
《论语》述而篇第七-35
素読文:
子曰く、奢れば則ち不孫、倹なれば則ち固なり。其の不孫ならんよりは、寧ろ固なれ。
解釈
孔子曰く“奢れる人は不遜になりがちであり、謙虚な人は卑屈になりがちだが、どちらを選ぶなら、不遜であるよりは、まだしも卑屈な方がいい”
子曰:文,莫吾犹人也,躬行君子,则吾未之有得。
《论语》述而篇第七-33
素読文:
子曰く:“文は吾猶お人のごときこと莫からんや。君子を躬行することは、則ち吾未だ之を得ること有らず。”
解釈:
孔子曰く:“典籍の研究は、私も人なみにできると思う。しかし、君子の行いを実践することは、まだなかなかだ”
孔子が「君子の行いがまだできていない」というのは謙遜では無く、あるべき姿が私たちが考えているより遥かに高いということでしょう。
子与人歌而善,必使反之,而后和之。
《论语》述而篇第七-31
素読文:
子、人と歌いて善ければ、必ず之を返さしめて、而る後に之に和わす。
解釈
孔子は誰かと歌をうたわれる場合、相手が善き歌い手だと、必ずその相手にくりかえし歌わせてから、合唱された。
《论语》述而篇第七-28
素読文:
子曰く、“蓋し知らずして之を作る者有らん。我は是れ無きなり。多く聞きて其の善き者を択びて之に従い、多く見て之これを識すは、知るの次なり。”
解釈
孔子曰く:“無知で我流の新説を立てる者もあるらしいが、私はそんなことはしない。私はなるべく多くの人の考えを聞いて取捨選択し、なるべく多く実際を見てそれを心にとめておき、判断の材料にするようにつとめている。むろん、それではまだ真知とはいえないだろう。しかし、それが真知にいたる途なのだ”
現代では、分からないことはネットで検索すればすぐに答えは見つかります。さらに検索を重ねれば、いろいろな答えや解釈が見つかります。私たちは孔子の時代の知識人より多様な解釈の中から自分の考えに合うものを選ぶことができると言ってよさそうです。
子曰。:天生德于予。桓魋(1)其如予何。
《论语》述而篇第七-22
(1)桓魋:宋の大夫、向魋。司馬(軍務大臣)の位にあった。宋に来た孔子を殺そうとした。司馬牛の兄。
素読文:
子曰く、天、徳を予に生ぜり。桓魋其予を如何せん。
解釈:
宋の大夫、向魋。司馬(軍務大臣)の位にあった。宋に来た孔子を殺そうとした。
孔子曰く:“私は天に徳を授かった身だ。桓魋などが私をどうにもできるものではない”
《论语》论语述而篇第七-26
素読文:
子、釣して綱せず。弋して宿を射ず。
解釈:
釣りをする時は網を使って一網打尽にすることはしない。
矢を射て鳥をとられることはあったが、鳥を巣ごと一網打尽に捕らえることはなかった。
子以四教:文、行、忠、信。
《论语》述而篇第七-25
素読文:
子は四を以て教う。文・行・忠・信。
解釈:
孔子は四つの科目により指導した。文献の研究、行動、忠誠、信義の四科目だ。
子路曰:卫君待子而为政,子将奚先?
子曰:必也正名乎。子路曰:有是哉。子之迂也。奚其正。
子曰:野哉,由也。君子于其所不知,盖阙如也。名不正,则言不顺。言不顺,则事不成。事不成,则礼乐不兴。礼乐不兴,则刑罚不中。刑罚不中,则民无所措手足。
故君子名之必可言也,言之必可行也。君子于其言,无所苟而已矣。
《论语》子路篇第十三-3
素読文:
子路曰く、衛君、子を待ちて政を為さば、子は将に奚をか先にせんとす。子曰く、必ずや名を正さんか。子路曰く、是れ有るかな、子の迂なるや。奚ぞ其れ正さん。子曰く、野なるかな由や。君子は其の知らざる所に於いて、蓋し闕如たり。名正しからざれば、則ち言順わず。言順わざれば、則ち事成らず。事成らざれば、則ち礼楽興らず。礼楽興らざれば、則ち刑罰中らず。刑罰中ざれば、則ち民手足を錯く所無し。故に君子之に名づくれば、必ず言う可きなり。之を言えば、必ず行なう可きなり。君子は其の言に於いて、苟くもする所無きのみ。
解釈:
子路はもし孔子が衛の君主に乞われ治世に当たることになったら何からされますか?と尋ねた。
孔子曰く“まずは言葉を合わせよう”
子路曰く“それでは回りくどく、効果が見えるまで時間がかかる様に思います”
孔子曰く“言葉の解釈がまちまちならば、治世に対する解釈がまちまちになる。治世は乱れる。
現代日本の状況も為政者と国民の『言葉』がずれている様に思います。
『繁栄』という言葉を、為政者は自ら所属する政治団体の勢力拡大と解釈し、国民は日々の生活のゆとりと解釈している。
子曰:二三子以我为隐乎,吾无隐乎尔,吾无行而不与二三子者,是丘也。
《论语》述而篇第七-24
素読文:
子曰く、二三子、我を以て隠せりと為すか。吾隠すこと無きのみ。吾は行なうとして二三子と与にせざる者無し。是れ丘なり。
解釈:
孔子は弟子たちに向かって言った「私の教えに何か秘密でもあって、それを君達にかくしていると思っているのではないか?私には何もかくすものはない。私はいつも、君達と一緒におり私の行動を見せている。それが私の教えの全部だ。丘とはそういう人間だ」
孔子の教えは、人として当たり前のことなので、もっと深い意味があるのではないかと考えてしまうのでしょう。重要なことは人として当たり前のことを実践することでしょう。
《论语》述而篇第七-23
素読文:
子は四を以て教う。文・行・忠・信。
解釈:
孔子は四課題を以て指導をした。「文」:書籍の研究、「行」:生活体験、「忠」:誠意、「信」:社会的信義だ。