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仁者安仁,知者利仁。

yuē:“rénzhějiǔchǔyuēchángchǔrénzhěānrénzhìzhěrén。”

《论语 里仁第四-2》

(注)约:贫困

素読文:
子曰わく、不仁者ふじんしゃもっひさしくやくからず。もっながらくからず。仁者じんしゃじんやすんじしゃじんす。

解釈:
孔子曰く:“仁の徳なき者は貧しい苦しさに長くは耐えられない。また長く安楽の境地におられない。仁の徳ある者は心安らかであり、知ある者は仁を生かすことができる。

子貢仁を為すを問う

gòngwènwéirényuē:“gōngshànshìxiānshìbāngshìzhīxiánzhěyǒushìzhīrénzhě。”

《论语 卫灵公第十五-10》

素読文:
こう、仁をすことを問う。子曰わく、こうの事をくせんとほっせば、必ずまず其のにす。くにに居るや、其の大夫たいふけんなる者につかえ、其のの仁なる者を友とす。

解釈:
子貢が仁を行う道について問うた。孔子曰く:大工は仕事の前にまずノミや鉋を研ぐ。同様に仁を行うためにはまず自分を磨かねばならない。そのためにはどの国にあろうとも、その国の賢者に仕え、仁者を友とすることだ。

「ダイヤはダイヤでしか磨かれない。人は人でしか磨かれない」立派な上司や友人を持つことが重要だということですね。

里は仁なるを美と為す

子曰:“rénwéiměichǔrényānzhì?” 

《论语 里仁第四-1》

素読文:
子曰わく、は仁なるをよしす。えらびて仁にらずんば、いずくんぞなるをん。

解釈:
住むところは仁徳のある人が多く住んでいるところがよい。人徳のある人が多くいるところを選ばずにどうして智が得られよう。

次の様に解釈することもできます。
子曰わく、じんるをす。えらびて仁にらずんば、いずくんぞなるをん。
仁の徳を行動の拠り所とするのが美しくよいことだ。自ら仁から離れては、どうして智者といえよう。

個人的にはこちらの方が好きです。

顔淵仁を問う

孔子の一番弟子顔淵も「仁」とは何かを問うています。

yányuānwènrényuē:“wéiréntiānxiàguīrényānwéirényóuéryóurénzāi?”yányuānyuē:“qǐngwèn。”yuē:“fēishìfēitīngfēiyánfēidòng。”yányuānyuē:“huísuīmǐnqǐngshì。”

《论语 颜渊第十二-1》

素読文:
顔淵がんえん、仁を問う。
子曰わく、おのれれいかえるを仁とす。一日いちじつ己に克ちて礼に復れば、天下仁にす。仁を為すは己にる。しこうして人に由らんや。
顔淵曰わく、う、もくを問わん。
子曰わく、
礼にあらざればることなかれ、
礼に非ざればくこと勿れ、
礼に非ざればうこと勿れ、
礼に非ざればうごくこと勿れ。
顔淵曰わく、かい不敏ふびんなりといえども、請う、こととせん。

解釈:
顔淵が仁とは何か問うた。
孔子曰く:
己に打ち勝ち、礼を踏まえて行動をする。これを仁と言う。
一日でも己に打ち勝ち礼を踏まえて行動をすれば、万民は仁を習うようになる。仁を実践するということは自分自身が実践しようと思えば出来る物である。
顔淵、その方法を問う。
孔子曰く:
礼を踏まえていなければ、視ないことだ。
礼を踏まえていなければ、聴かないことだ。
礼を踏まえていなければ、言わないことだ。
礼を踏まえていなければ、動かないことだ。
顔淵答えて曰く:
私に出来るかどうか分からないが、この言葉を私の人生の指針として行きたい。

孔子が非礼勿視,非礼勿聴,非礼勿言,非礼勿動。と言っている『礼』は礼儀、儀礼と解釈すると意味がよくわかりません。調和とか秩序と解釈すると判りやすいと思います。
『復礼』すなわち利己を捨て調和・秩序のとれた社会になれば、相手を重んじ礼儀も儀礼もよくなるでしょう。

为仁由己,而由人乎哉?
仁を為すは己による。他人に由るモノではない。言い訳無用、実践あるのみ、と理解しました。

続・樊遅仁を問う

 先週は樊遅が孔子に「仁」とは何かと尋ねたのをご紹介しました。
「樊遅仁を問う」
実は樊遅は別の機会にも、孔子に「仁」とは何かと訪ねています。

fánchíwènrényuē:“chǔgōngzhíshìjìngrénzhōngsuīzhī。”

《论语 子路篇第十三−19》

(注)夷狄:古代中国で、東方の未開国を夷、北方のそれを狄といったところから、未開の民や外国人。野蛮な民族という意味。
『之』:『到』の意味。

素読文:
樊遅はんち仁を問う。子曰わく、居処きょしょするにうやうやしく、事をるにつつしみ、人にまじわりてちゅうならば、夷狄いてきくといえども、つべからざるなり。

解釈:
樊遅が「仁」とは何かと問うた。孔子曰く:いかなる処でも恭しく、いかなる事にも慎みしみ深く、人との交わりには忠義を尽くす。たとえ未開の国に行っても忘れてはいけない。

以前孔子は樊遅に「仁者はかたきを先さきにしてるを後にす」と言っています。同じ人に、違うことを言っている。その時々に相手に必要なことを教えていたのでしょう。

『仁』に関する以前のエントリー

言に訥、行に敏

巧言令色仁鮮なし

樊遅仁を問う

樊遅仁を問う

前回は司馬牛が孔子に「仁」を問うたのをご紹介しました。
「司馬牛仁を問う」

樊遅も孔子に「仁」とは何かと訪ねています。

fánchíwènzhìyuē:“mínzhȳjìngguǐshénéryuǎnzhīwèizhì。”
wènrényuē:“rénzhěxiānnānérhòuhuòwèirén。”

《论语 雍雅第六-22》

樊迟:孔子の弟子。

素読文:
 はんう。いわたみつとしんけいしてこれとおざく、知とし。
 じんを問う。いわく、仁者じんしゃかたきをさきにしてるをのちにすじんし。

解釈:
樊遅が「知」とは何かと問うた。孔子曰く:知あるものは人としての義を尽くし、神や先祖を大切にするが、神や仏に頼る様なことはしない。それが知者というものだ。
樊遅は「仁」とは何かと重ねて問うた。孔子曰く:仁者は困難なことを避けずに行い、損得は後に考える。これが仁者というものだ。

司馬牛仁を問う

「仁」について色々な人が孔子に尋ねています。

niúwènrényuē:“rénzhěyánrèn。”
曰:“yánrènwèizhīrén?”
子曰:“wéizhīnányánzhīrèn?”

≪论语≫颜渊第十二-3

司马牛:孔子の弟子。
讱:かたんず:言葉が慎重でなかなか出てこない様。

素読文:
司馬牛しばぎゅう、仁を問う。いわく、仁者じんしゃは其の言やかたんず。
曰く、其の言やかたんずる、これを仁とうべきか。
子曰く、これをすことかたし。これを言うことかたんずる無きをんや。
解釈:
司馬牛が孔子に仁を訪ねた。
孔子曰く「仁者は言葉が控えめである」
司馬牛が問う「言葉が控えめであれば、それだけで仁者でしょうか?」
孔子曰く「何事も行うことは難しい。したがって言葉が慎重にならざるを得ないのだ」

以前にご紹介した「剛毅木訥仁に近し」「言に訥、行に敏」にあるように、言葉よりも実践。仁者たるもの言葉だけでなく行動に責任を持つ。従って行動をする前に良い加減なことは言わないということでしょう。

言に訥、行に敏

先週ご紹介した剛毅木訥は仁に近し。に出てきたとつについてもう少し調べて見ましょう。

yuē:“jūnyánérmǐnxíng。”

《论语·里仁第四-24》

素読文:
子曰わく、君子はげんとつにして、こうびんならんと欲す。

解釈:
君子は口数は少なく、行動は俊敏でありたい。

知識があれば言葉は出ます。しかし知識はそのままでは役には立ちません。知識を生かす能力をつけなければならない。能力があっても行動しなければ成果はありません。
軽々しく言葉がでても、自分の言葉が行動に及ばないようでは仁者どころか君子とも言えません。

剛毅木訥

yuē:“gāngjìnrén。”

《论语》子路第十三-27

毅:guǒgǎn:勇敢で決断力がある。
木:质朴zhìpǔ:素朴な、質素な
yánchídùn:口数が少ない。

素読文:
子曰わく、ごうぼくとつは仁に近し。

解釈:
物事に屈しない、勇敢で決断力がある、飾り気がない、言葉少ない、そういう人が仁に近い。

剛毅つよきが故に憂えず、朴訥としていられる。ということでしょう。
気になるところは『剛毅木訥』が「仁」だとは言っていないところです。「仁に近し」としか言っていない。『剛毅木訥』だけでは足りないのでしょう。

3回にわたって『仁』について考えて見ました。
『孝悌』:親や目上の人に対する思いやり。
『巧言令色』:相手を立てるためというよりは、自己の利益を中心に考える利己心から生まれるモノでしょう。
『仁者不忧』:仁の徳があれば、あれこれ憂えることはない。

この中で『孝悌』は『剛毅木訥』に含まれない様な気がします。

『剛毅木訥』に『孝悌』を加えると『仁』になるのでしょうか。まだまだ道は遠い様です。

仁者憂えず

yuē:“zhīzhěhuòrénzhěyōuyǒngzhě。”

《论语》子罕第九-29

素読文:
子曰く、知者はまどわず。仁者はうれえず。勇者はおそれず。

解釈:
子曰く、知恵ある者はあれこれ迷わない。仁の徳ある者は憂えない。勇気ある者は懼れない。

知恵があれば正しい選択ができ、あれこれ迷うことはない。
徳があれば他者への思いやりを持てる。自己に向けた憂いの感情はなくなる。
勇気があれば恐れることはなくなる。

『仁者』とは、自己の憂いから自由になっている人のことだと言えるでしょう。
憂いは自分中心に考えるところから発生します。

以下のエントリーで『仁』について考えました。
『孝悌』は親や目上の人に対する思いやり。
『巧言令色』は相手を立てるためというよりは、自己の利益を中心に考える利己心から生まれるモノでしょう。

「仁」とは利己より利他を優先する思いやりの徳と考える事ができそうです。