タグ別アーカイブ: 論語

仁者憂えず

yuē:“zhīzhěhuòrénzhěyōuyǒngzhě。”

《论语》子罕第九-29

素読文:
子曰く、知者はまどわず。仁者はうれえず。勇者はおそれず。

解釈:
子曰く、知恵ある者はあれこれ迷わない。仁の徳ある者は憂えない。勇気ある者は懼れない。

知恵があれば正しい選択ができ、あれこれ迷うことはない。
徳があれば他者への思いやりを持てる。自己に向けた憂いの感情はなくなる。
勇気があれば恐れることはなくなる。

『仁者』とは、自己の憂いから自由になっている人のことだと言えるでしょう。
憂いは自分中心に考えるところから発生します。

以下のエントリーで『仁』について考えました。
『孝悌』は親や目上の人に対する思いやり。
『巧言令色』は相手を立てるためというよりは、自己の利益を中心に考える利己心から生まれるモノでしょう。

「仁」とは利己より利他を優先する思いやりの徳と考える事ができそうです。

巧言令色仁鮮なし

yuē:“qiǎoyánlìangxiǎnrén。”

《论语》学而第一-3

巧言:huāyǎnqiǎo
令色:tǎohǎodebiǎoqíng

素読文:
子曰く、こうげんれいしょくすくなしじん

解釈:
子曰く:言葉巧みに取り入りご機嫌をとる様な者は「仁」が少ない。

「仁」は論語の中では最高の徳として位置付けれています。
学而第一-2『孝悌也者,其為仁之本与?』と合わせると、
『孝悌』を務める者が仁者である。
『巧言令色』は仁者ではない。
ということになります。

徐々に仁者の実態が見えてきました。

仁者孝悌を務む

有子曰:“其为人也孝悌而好犯上者,鲜矣。不好犯上而好作乱者,未之有也。君子务本,本立而道生。孝悌也者,其为仁之本与?”

《论语》学而第一-2

有子:本名は有若。孔子の弟子です。論語に登場する回数は少ないですが、名前に「子」が付いているので、高弟の一人でしょう。

素読文:
有子曰わく:その人とりやこうていにして、かみおかすをこのむ者はすくなし。上を犯すことを好まずして、らんすを好む者はいまこれらざるなり。君子はもとつとむ。本立ちて道しょうず。孝悌なる者は、それじんすの本たるか。

解釈:
有子曰く:人柄が親思いで兄弟思いならば、目上の人に楯突く様なことを好む者は少ない。目上の人に楯突くことを好まない者であれば、世の中を乱す事を好む者はまずない。君子は本をしっかり努める。本がしっかりしていれば、人として生きる道がはっきりする。親を思い、兄弟を思うことが仁の本である。

義侠人の進む道を「仁義」といいます。「仁」は人の進むべき道と解釈すればいいでしょう。

人知らずして慍らず

子曰:“学而时习之,不亦说乎?有朋自远方来,不亦乐乎?人不知而不愠,不亦君子乎?”

《论语》学而第一-1

yuèshuōではなくyuè(楽しむ)の意味
yùn:憤る

素読文:
子曰く:学びて時にこれならう、またよろこばしからずや。ともえんぽうより来る有り、亦楽しからずや。人知らずしていからず、亦君子ならざるや。

解釈:
子曰く:学んで時にこれを復習する、学んだことが身につく。喜ばしいことではないか。心からの友人が遠方より訪ねてくる。楽しいことではないか。人に認められなくても憂えない。君子と言えるだろう。

論語の最初の一節です。
一般的には『shí』は『ànshíwēn』時にこれを復習する、という意味に解釈されます。個人的には「学びて時にこれを実践する」と解釈しています。

日本語でも朋あり遠方より来る。亦楽しからずや。とよく言いますが、最後の人知らずして慍らず、亦君子ならざるや。を味わい深く感じます。
人に認められようと大言壮語するより、ひたすら己の道を求めて研鑽する求道心を持ちたいものです。

【追補】
『有朋自遠方来』を「朋遠方より来る有り」と訳しました。
Google検索をして見ると、日本では「朋有り遠方より来る」と訳す方が多い様です。
個人的には「朋がある」ことより「朋が遠方から来る」ことの方が楽しいと思うので「朋遠方より来る有り」と訳しました。

また検索中に、「学んで時に之を習う」と「人知らずして慍らず」の間に「朋遠方より来る有り」と異質なモノが挟まってるのに疑問を持つ意見を発見しました。
その方は
「学んで時に之を習う」のは「朋が遠方より来て語り合う」ことと同じくらい楽しいものだ。
と解釈されていました。こちらの方が腑に落ちます。

学びて思う

子曰:“学而不思则罔,思而不学则殆。”

《论语》为政第二-15

wáng:无知
dài:疑惑

素読文:
子曰く:学びて思わざればすなわくらし。思いて学ばざれば則ちあやうし。

解釈:
書を読むだけで自ら考えなければ、物事ははっきりしない。考えるだけで学ばなければ、確かなものにはならない。
歴史や書物から学ぶだけではなく、自の体験に照らして考えることにより、実践的な知恵となる。つまり「学びて思えば殆うからず」ということです。

君子同じて和せず

子曰:“君子和而不同,小人同而不和。”

《论语》子路第十三-23

:于事物来说是“多样性的统一”。而对于人来说,“和”是和于观点与意见,是观点与意见的多样性统一。
tóng:同质事物的绝对同一,即把相同的事物叠加起来。

素読文:
わく、君子してどうぜず。小人同じて和せず。

解釈:
君子は他人とよく調和してやっていくが、自分の立場を忘れて、他人にひきずられたりはしない。
小人は他人にひきずりまわされたり、へつらったりするが、自分の立場を守りながら、他人と調和してやってゆくことはできない。

私は『和而不同』と『同而不和』をこんなふうに定義しています。
和して同せずの人たちはチーム。すなわち目的と目標を共有し互いに貢献しあうモチベーションの高い人の集まり。
同じて和せずの人たちはグループ。すなわち場所と時間を共有しお互いに盛り上がるテンションの高い人の集まり。

同じて和せずの人たちは、仲がいいように見えます。互いに思いやりを持ち、気持ちよく過ごせるように気を使います。

和して同せずの人たちは、仲がいいようには見えません。時として激しく議論し対立もします。しかし自分たちの目的や目標を達成するために各自の責任を果たします。

会社の帰りに居酒屋に集まり、会社や上司の愚痴を言いながら憂さ晴らしをするのが「動じて和せず」の人たち。
仕事で目的目標を達成するために貢献しあうのが「和して同ぜず」の人たち。
ちょっと言い過ぎでしょうか(笑)

賢なるかな回也

子曰:“贤哉回也,一箪食,一瓢饮,在陋巷,人不堪其忧,回也不改其乐。贤哉回也。”

《论语》雍也第六-十一

huíは孔子の弟子・yánhuíの事。颜渊yányuānとも呼ばれる。
dān:竹でできた飯を盛る器
piko:柄杓
陋巷lòuxiàng:路地裏のあばら家、顔回の住まい。

素読文:
子曰く、けんなるかなかいや。一箪いったん一瓢いっぴょういん陋巷ろうこうり。人はれいにたえず。回や其のたのしみをあらためず。賢なるかな回や。

解釈:
顔回はなんという賢者だろう。一膳の飯を食べ、一杯の水を飲むだけ。あばら家に住まいしておれば、たいていの者は堪えられないだろう。顔回は学問を究める楽しみを変えない。顔回はなんという賢者だろう。

子貢が顔淵は一を聞いて十を知る才人ですと褒めたとご紹介しました。
一を聞いて十を知る

師匠である孔子も顔淵にはかなわないと言っています。
今週ご紹介するのは、その孔子が顔淵を褒めて言った言葉です。
貧しい暮らしを一向に苦にする様子もなく、研鑽を積む姿は求道者と言っても良さそうです。孔子は顔淵のそういう学問を究める姿勢を愛していたのでしょう。

一を聞いて十を知る

子谓子贡曰:“女与也孰愈?”对曰:“赐也何敢望回?回也问一以知十,赐也问一知二。”子曰:“弗如也!吾与女弗如也。”

《论语》公冶长5.9

は汝の意味。
huíは孔子の弟子・yánhuíの事。
は子贡の本名(姓・端木、名・賜)から

素読文:
子、こういてわく、なんじかいいずれかまされる。こたえて曰わく、や、何ぞあえて回を望まん。回や一を聞きてもって十を知る。賜や一を聞きて以て二を知る。子曰わく、かざるなり。われと女と如かざるなり。

解釈:
孔子が子貢しこうに尋ねました、
「お前と顔回がんかいとどちらが優れているか?」
子貢は、
「私など彼にとても及びません。彼は一を聞いて十を知る事が出来ますが、私は一を聞いて二を知るくらいがせいぜいです。」
と答え、孔子は、
「そのとおり、私もとても顔回には及ばない。私たちはとても彼には及ばないのだ。」
とおっしゃった。

「一を聞いて十を知る」聡明な人を称してこう言います。日本原来の言葉と思っていましたが、原典は論語です。

孔子一番の弟子・顔回(字名は子淵、別名顔淵)は、どちらかというと清貧にして学研の徒という感じです。顔回の求道の姿勢を孔子は高く評価していた様です。しかし孔子より先に夭折してしまう。
孔子は『顏淵死。子曰。噫。天喪予。天喪予。』(先進11.8)と嘆いています。

対する子貢は、弁が立ち高い職に就いています。
この孔子との問答でも、顔回は一を聞いて十を知ると讃えながら「自分は一を聞いて二を知ることができる」としっかりアピールしています。

二宮尊徳

 私と同じ様な年頃の皆さんは、小学生の頃、二宮金次郎が薪を背負い本を読んでいる銅像や石像が、学校に有ったのを覚えておられると思う。我々は二宮金次郎と覚えているが、大久保忠真から二宮尊徳と言う名を貰っている。「徳を尊ぶ」五常(仁義礼智信)を説き「推譲」を実践した二宮尊徳にぴったりの名前だ。

残念ながら、最近は二宮金次郎の銅像が小学校から撤去されていると聞く。
本を読みながら道を歩くと、交通事故に遭うと言うのがその理由だそうだ。我が子にまともな教育も出来ない親達が、そのような馬鹿な事を言っているのだろう。驚くべき事に、学校側もその意見に組していると言う。

「ゆとり教育」以降日本の教育行政は、目も当てられない状況だと思う。子供達は、我々の未来そのものだ。未来を育てる教育行政が此の様な体たらくでは、先行きが心配だ。

突然二宮尊徳の話が出て来て戸惑われている方も多いかもしれない(笑)
二宮尊徳の「道徳を忘れた経済は罪悪である。経済を忘れた道徳は寝言である」と言う言葉を稲盛和夫氏が引用しておられた。それで二宮尊徳の本を拾い読みなおしたと言うのが、真相だ(笑)

「二宮尊徳の経営学」童門冬二著

私たちは、二宮尊徳を寸暇を惜しんで勉学に励んだ人として記憶し、勤労・勤勉の姿勢を学んだ。しかし彼には、篤農家、財政再建者の側面もある。

二宮尊徳の信条は「利他」であり「推譲」だ。

「利他」と言うのは「利己」の対立概念であり、自分の利益よりは他人の利益を優先すると言う考え方だ。
「ウィン・ウィン関係」などと言う言葉がもてはやされているが、「ロス・ウィン関係」でちょうど良い。まずは相手に利を与える。ずっとそれで良い訳ではない。ずっとロス・ウィン関係であれば、いつかは関係の維持が出来なくなる。いわば「経済なき道徳」だ。経済なき道徳では、継続が出来ない。

先に「利他」を尽くせば、相手との信頼関係が出来る。信頼関係が出来れば、相手は喜んで利をこちらに与えてくれる。

「推譲」も同じ様な概念だ。
譲(ゆずる)に更に「推」がついている。ただ譲るだけではなく、積極的に譲る。

中国では、孔子が『恕』と言っている。
中文
『子贡问曰:“有一言而可以终身行之者乎?” 子曰:“其‘恕’乎!己所不欲,勿施于人。”』
日本語読み下し文
『子貢問とうて日わく、一言にして以て身を終うるまで之を行なうべき者有や。子日わく、其恕か。己の欲せざる所、人に施すこと勿かれ。』

弟子の子貢に「一生涯貫き通す事を一言で言えば何か?」と問われ「恕」であると孔子は答えている。「己の欲せざる事を、人に施してはならない」と解説しているが、ポジティブに言い直せば「人が望む事をして上げなさい」と言うことになる。

二宮尊徳も、我々も「譲」「利他」を中国から学んでいる。
現代中国では、バスで年寄りに席を譲る若者を多く見る。しかし「拝金」や「利己」がはびこっていると言わざるを得ない。他人を騙してでも「利己」を得ようとする。

我々がここで出来る事は微力であっても、無力ではない。自分の周りだけでも「利他」「推譲」の精神で接したい。継続すれば「積小為大」となる。そうなれば、きっと利は自分に返って来るはずだ。


このコラムは、2014年7月28日に配信したメールマガジン【中国生産現場から品質改善・経営革新】第372号に掲載した記事に加筆したものです。

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