タグ別アーカイブ: 里仁

我、力の足らざる者を見ず

yuē:“wèijiànhào(1)rénzhěrénzhěhàorénzhěshàngzhīrénzhěwéirén使shǐrénzhějiāshēnyǒunéngyòngrénwèijiànzhěgài(2)yǒuzhīwèizhījiàn。”

《论语》里仁第四-6

(1)hào:四声の「好」好む
(2)盖:あるいは

素読文:
わく:“われいまじんこのむ者、じんにくむ者を見ず。仁を好む者は、もっこれくわうるし。不仁をにくむ者は、それ仁をさん。不仁者をしてそのくわえしめず。よく一日いちじつも其ちからを仁にもちうることらんか。我未だちかららざる者を見ず。けだし之有らん。我未だ之を見ざるなり。”

解釈:
子曰く「私はこれまで、まことに仁を好む者、真に不仁を憎む者を見たことがない。真に仁を好む者は自然に仁を行なう者で、まったく申し分がない。不仁を憎む者も、つとめて仁を行なうし、また決して不仁者の悪影響をうけることがない。その日その日を仁にはげめばいいのだ。たった一日の辛抱さえできない者はいだろう。私はまだ、それさえもできないような者を見たことがない。」

仁者になるためには、小さな徳を毎日、毎日積み重ねれば良い、ということですね。

貧賤に留まる覚悟

yuē:“guìshìrénzhīsuǒdàozhīchùpínjiànshìrénzhīsuǒdàozhījūnrénchéngmíngjūnzhōngshízhījiān(1)wéirénzào(2)shìdiānpèi(3)shì 。”

《论语》里仁第四-5

(1)终食之间:食事を済ますだけの時間。わずかな時間。
(2)造次:とっさの時。
(3)颠沛:危急の時。

素読文:
子曰わく:“とみたっときとは、これ人のほっする所なり。その道をもってせざれば、これるともらざるなり。ひんせんとは、是人のにくむ所なり。その道を以ってせざれば、これるとも去らざるなり。君子は仁を去りて、いずくにか名をさん。君子は終食しゅうしょくかんも仁にたがうこと無く、造次ぞうじにもかならここおいてし、顚沛てんぱいにもかならここおいてす。”

解釈:
人は富や地位が欲しいものだ。しかし道に外れた行いでそれを得たのであれば、富や地位を享受すべきではない。人は貧困や卑賤を厭うものだ。しかし道を誤ってそうなったのでなければ、無理にそこから逃れようとすることはない。君子たるもの仁を忘れて君子の名に値せず。君子は束の間も仁に背かぬ様に心がけるべきだ。それどころかとっさの時、危急の時にも仁の道を外れてはならない。

下村湖人は『终食之间』を箸の上げ下ろしの間と解釈しています。一瞬たりとも仁の心を忘れない、という心が伝わる解釈だと思います。

人の過ちや

yuē:“rénzhīguòdǎngguānguòzhīrén。”

《论语》里仁第四-7

素読文:
子曰く:“人のあやまちや、各々おのおのそのとうおいてす。あやまちをここじんを知る。”

解釈:
人がらしだいで過失にも種類がある。だから、過失を見ただけでも、その人の仁、不仁がわかるものだ。

人は過ちを犯すものです。しかし仁者が犯す過ちと、不仁者が犯す過ちは性質が異なります。過ちの内容をよく見れば、それが仁者によるものか不仁者によるものか区別がつく、という意味と理解しました。
『党』をその人が属する集団と解釈する読み方もあるようです。

過ちを見て仁を知る

yuē:“rénzhīguòdǎngguǎnguòzhīrén。”

《论语》里仁第四-7

党:类

素読文:
子曰わく、人のあやまちや、各々おのおのそのとういてす。あやまちをここに仁を知る。

解釈:
子曰く、人がらしだいで過失にも種類がある。だから、過失を見ただけでも、その人の仁、不仁がわかるものだ。

『党』を「類」と解釈するとこのような解釈となります。過ちの類によっては仁の兆しであることもありうる、ということです。

『党』を『郷党』(集落共同体)と解釈すると次のような解釈となります。
人民の過ちというのは、それぞれが住んでいる土地(郷党)の風俗(文化)によるものである。人民の過ちを見れば、その土地の仁の徳による教化(民度)がどこまで進んでいるのかが分かる。

ところで「党」という文字を安岡正篤師は「宜しからぬ人が寄り集まること」であると言っています。
だから「悪党」はあるが「善党」はありません。

過ちをただ責めるのではなく、過ちを過ちとして改める事が出来る人は仁者に近いと考えたいものです。

仁者は孤独ならず

yuē:“yǒulín。”

《论语》里仁第四-25

素読文:
子曰く:“とくならず、かならとなり有り。”

解釈:
徳を積んだ仁者は孤高ではない。必ず同じ志持つ仲間が隣にある。

たとえ遠くに住んでいても孤独ではないという事ですね。
ともえんぽうより来る有り、また楽しからずや。
人知らずして慍らず

仁を志せば悪なきなり

yuē:“gǒuzhìrénrénè*

《论语》里仁第四-4

(注)恶:邪恶

素読文:
子曰わく:いやしくも仁にこころざせば、しきこときなり。

解釈:
志がたえず仁に向ってさえおれば、過失はあっても悪を行なうことはない。

しきこときなり。”を
にくむこときなり。”と読むと「仁を志すならば、人を憎んではいけない」と解釈できます。または
にくまるることきなり。”と読めば、「仁を志していれば、人から憎まれることはない」と解釈できます。

いずれの解釈でも私たちは常に「仁」を大切にしなければならない、という事です。

仁者は人を憎まず?

yuē:“wéirénzhěnénghàorénnéngrén。”

《论语》里仁第四-3

(注)hào。好む。yàn。憎む。嫌悪する。

素読文:
子曰く、ただ仁者く人を好み、能く人をにくむ。

解釈:
子曰く:“ただ仁の徳を持った者だけが正しく人を愛し、正しく人をにくむことができる。”

仁者たるもの、人をあまねく愛し、人を憎むことなどないと考えがちです。
孔子が言っているのは「正しく」愛し、「正しく」憎むのが仁者ということだと思います。溺愛したり、私情で憎むのは仁者ではありません。

仁者安仁,知者利仁。

yuē:“rénzhějiǔchǔyuēchángchǔrénzhěānrénzhìzhěrén。”

《论语》里仁第四-2

(注)约:贫困

素読文:
子曰わく、不仁者ふじんしゃもっひさしくやくからず。もっながらくからず。仁者じんしゃじんやすんじしゃじんす。

解釈:
孔子曰く:“仁の徳なき者は貧しい苦しさに長くは耐えられない。また長く安楽の境地におられない。仁の徳ある者は心安らかであり、知ある者は仁を生かすことができる。

里は仁なるを美と為す

子曰:“rénwéiměichǔrényānzhì?” 

《论语》里仁第四-1

素読文:
子曰わく、は仁なるをよしす。えらびて仁にらずんば、いずくんぞなるをん。

解釈:
住むところは仁徳のある人が多く住んでいるところがよい。人徳のある人が多くいるところを選ばずにどうして智が得られよう。

次の様に解釈することもできます。
子曰わく、じんるをす。えらびて仁にらずんば、いずくんぞなるをん。
仁の徳を行動の拠り所とするのが美しくよいことだ。自ら仁から離れては、どうして智者といえよう。

個人的にはこちらの方が好きです。

言に訥、行に敏

先週ご紹介した剛毅木訥は仁に近し。に出てきたとつについてもう少し調べて見ましょう。

yuē:“jūnyánérmǐnxíng。”

《论语》里仁第四-24

素読文:
子曰わく、君子はげんとつにして、こうびんならんと欲す。

解釈:
君子は口数は少なく、行動は俊敏でありたい。

知識があれば言葉は出ます。しかし知識はそのままでは役には立ちません。知識を生かす能力をつけなければならない。能力があっても行動しなければ成果はありません。
軽々しく言葉がでても、自分の言葉が行動に及ばないようでは仁者どころか君子とも言えません。