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暴君・紂王

gòngyuē:“zhòu(1)zhīshànshìzhīshènshìjūnxiàliú(2)tiānxiàzhījiēguīyān。”

《论语》子张第十九-20

(1)纣:殷代最後の王。後に放蕩、暴政の暴君と言われる。
(2)下流:窪地で水が集まる場所。転じて道徳的に不利な地位を意味する。

素読文:
こういわく、ちゅうぜんは、くのごとくはなはだしからざりしなり。ここもっくんりゅうることをにくむ。てんあくみなこれすればなり。

解釈:
子貢曰く:暴君と言われる殷の紂王の悪行も実際はさほどでもなかったらしい。それが後世暴君のように言われるのは、道徳的に不善な環境にいたからだろう。だから君子はそのような場所にいることを憎むのだ。

本当の君主であれば、時代や周囲の環境に流されることなく、不道徳な世の中を改善するのではないでしょうか。子貢の紂王に対する評価は少し甘いように感じます。

賢者を尊び、衆を容れる

xiàzhīménrénwènjiāozhāng
zhāngyuē:“xiàyún?”duìyuē:“xiàyuē:‘zhězhīzhězhī。’”
zhāngyuē:“suǒwénjūnzūnxiànérróngzhòngjiāshànérjīnnéngzhīxiànrénsuǒróngzhīxiànrénjiāngzhīrén?”

《论语》子张第十九-3

素読文:
子夏しか門人もんじんまじわりをちょうう。
ちょういわく、子夏しかなにとかえる。こたえていわく、子夏しかいわく、なるものこれくみし、不可ふかなるものこれこばめと。
ちょういわく、ところことなり。くんけんたっとびてしゅうれ、ぜんよみしてのうあわれむ。われ大賢たいけんならんか。ひといてなんれざるところぞ。われけんならんか。ひとまさわれこばまんとす。これ如何いかんひとこばまんや。

解釈:

子夏の門人が人との交流を子張にたずねた。
子張曰く:“子夏はなんといったのか”
子夏の門人答えて曰く:“ためになる人と交わり、ためにならない人とは交わるな、といわれました”
子張曰く:“それは私の学んだことと違う。君子は賢者を尊び衆人を受け入れる。善人を称讃するとともに無能の人をあわれむ、と私は学んだ。自分がもし賢者であるなら、誰でも受け入れる、自分がもし賢者でなければ、こちらが相手をきらうまえに、相手がこちらをきらうだろう”

君子たる者、学歴、社会的地位、貴賎で人を判断すべきではない。
というのは理解できますが、他人の時間を奪うような人とは付き合いたくない、と小人の私は思います。

君子の指導

yóuyuē:“xiàzhīménrénxiǎodāngsǎoyìngduìjìn退tuì(1)běnzhīzhī。”
xiàwénzhīyuē:“yányóuguòjūnzhīdàoshúxiānchuányānshúhòujuàn(2)yānzhūcǎobiéjūnzhīdàoyān(3)yǒushǐyǒuzhěwéishèngrén。”

《论语》子张第十九-12

(1)子游:姓はげん、名はえん。孔子十哲の一人
(2)子夏:姓はぼく、名はしょう。孔子十哲の一人。
(3)抑:ただし、そもそも
(4)诬:だます

素読文:
ゆういわく、子夏しか門人もんじんしょうは、洒掃さいそう応対おうたい進退しんたいあたりては、すなわなり。そもそすえなり。これもとづくるはすなわし。これ如何いかん
子夏しかこれきていわく、ああ言游げんゆうあやまてり。くんみちは、いずれをかさきにしてつたえ、いずれをかのちまん。これ草木そうもくにしてもっべつあるにたとう。くんみちは、いずくんぞうべけんや。はじおわあるものは、聖人せいじんか。

解釈:
子游曰く:「子夏の門下の若者たちは、掃除、応対、立ち居振る舞いが良くできている。しかし、そんなことはそもそも末梢小事だ。根本を教えられていないようだが、いったいどういうわけだ」
子夏聞きて曰く「ああ、言游は心得違いをしている。君子が人を導くには、何が重要だから先に教えるとか、何が重要でないから後でもいいとか、一律にきめてかかるべきではない。たとえば草木を育てる場合は、その種類に応じて、育て方がちがっていなければならないのだ。君子が門人を導くのに、無理があっていいものだろうか。道の本末がすべて身についているのは、ただ聖人だけで、一般の人々には、その末になることさえまだ身についていないのだから、むしろそういうことから手をつけるのが順序ではあるまいか」

周公の教え

zhōugōngwèigōng(1)yuē“君jūnchí(2)qīn使shǐchényuàn(3)jiùqiúbèirén。”

《论语》微子第十八-10

(1)鲁公:伯禽。魯の初代君主。父は周王朝の周公旦。
(2)施:遠ざける。
(3)以:用いる。信任する。

素読文:
しゅうこうこういていわく:“くんしんてず。大臣たいじんをしてもちいられざるをうらましめず。きゅうたいければ、すなわてざるなり。そなわるを一人いちにんもとむることかれ。

解釈:
周公は魯公に言った“君子たるもの親族を見捨てるものではない。家臣を信任せず恨みに思わせるものではない。古くからの家臣は大きな過ちがなければ捨てない方が良い。一人の家臣に全てを求めてはならない”
現代にも通じる言葉です。部下は信じて用いれば、上司を信頼して働きます。万能な部下よりは、多様な能力を持ったチームの方が力を発揮するはずです。

君子に三つの顔あり

xiàyuē:“jūnyǒusānbiànwàngzhīyǎnránzhīwēntīngyán。”

《论语》子张第十九-9

素読文:
子夏しかいわく、くん三変さんぺんり。これのぞめば儼然げんぜんたり。これくやおんなり。そのげんくやはげし。

解釈:
子夏曰く:“君子は三つの顔がある。遠くから眺めれば厳然とし、近づいて会えば温かい、その言葉は厳しい。

《論語》述而第十七-38には“子温而厉,威而不猛,恭而安。”とあります。当然ながら孔子もまた君子である、ということです。

百工事をなし、君子道を致す

xiàyuē:“bǎigōng(1)chéngshìjūnxuézhìdào。”

《论语》子张第十九-7

(1)肆:仕事場

素読文:
子夏しかいわく、ひゃくこうもっことし、くんまなびてもっみちいたす。

解釈:
職人は仕事を極めることにより「事」をなし、君子は学問を極めることで「道」をなす。
職人は自分の技を磨きモノを作ります。モノとは具体的な物だけではなく、サービスも含むでしょう。そのモノにより人々の幸福感を高める。これが「事」だと思います。
学問を極めてもただの物知りに過ぎません。君子はその学識により人々の道徳、規範を正す。これが「道」だと思います。

遠きを致す

xiàyuē:“suīxiǎodào(1)yǒuguānzhěyānzhìyuǎnkǒng(2)shìjūnwéi。”

《论语》子张第十九-4

(1)小道:農業、工業、商業、医療、占いなどの技能
(2)泥:妨げとなる

素読文:

子夏しかいわく:しょうどういえども、かならるべきものり。とおきをいたすにはおそらくなずまん。ここもっくんさざるなり。

解釈:

子夏曰く「農業、工業、商業、医療、占いなどの技能もそれぞれ意義はある。しかしそのような技能では、人の真理は探究できない。だから君子はそのような技能には専念しないのだ」

最先端の技術は4年もすると陳腐化します。2500年経っても陳腐化しない孔子の教えをもっと学ぶべきだと思います。

君子が悪む者

gòngyuē:“jūnyǒu(1)?”
yuē:“yǒuchēngrénzhīèzhěxiàliú(2)érshàn(3)shàngzhěyǒngérzhěguǒgǎnérzhì(4)zhě。”yuē:“(5)yǒu?”
jiǎo(6)wéizhì(7)zhěxùn(8)wéiyǒngzhějié(9)wéizhízhě。”

《论语》阳货第十七-24

(1)恶:嫌悪
(2)下流:下級の
(3)讪:誹謗
(4)窒:不合理、頑固
(5)赐:子貢のこと
(6)徼:盗む
(7)智:知恵
(8)逊:不遜
(9)讦:他人を攻撃して暴露する

素読文:

こういわく、くんにくむことるか。
いわく、にくむことり。ひとあくしょうするものにくむ。りゅうかみそしものにくむ。ゆうにしてれいものにくむ。かんにしてふさがるものにくむ。いわく、またにくむことるか。
かすめてもっものにくむ。そんにしてもっゆうものにくむ。あばいてもっちょくものにくむ。

解釈:
子貢が孔子に対して、人格者であるべき君子もまた人を憎むことがあるか?と尋ねる。
孔子は、他人の悪事を暴く者。自分の上位者を悪く言う者。勇気があっても礼のない者。果敢であっても道理にかなわない者。君子であっても、こう言う連中を憎む。子貢よ、お前はどうだ。
私は、他人の業績を掠め取り自分のものとする者、不遜であることを勇気と間違えている者、他人の秘密を暴いて正義だと考えている者、こう言う連中を憎みます。

刑罰中らざれば、則ち民手足を措く所無し

yuē:“wèijūn(1)dàiérwéizhèngjiāng(2)xiān?”

yuē:“zhèngmíng(3) 。” yuē:“yǒushìzāizhī(4)zhèng。”

yuē:“zāiyóujūnsuǒzhīgàiquē(5)míngzhèngyánshùnyánshùnshìchéngshìchéngyuèxīngyuèxīngxíngzhòng(6)xíngzhòngmínsuǒcuòshǒujūnmíngzhīyányánzhīxíngjūnyánsuǒgǒu(7)ér。”

《论语》子路第十三-3

(1)卫君:衛の32代君主。衛霊公の孫
(2)奚:什么。何を
(3)正名:身分、地位を正す
(4)迂:まわり遠いこと
(5)阙:疑わしい
(6)中:適切な
(7)苟:马马虎虎。いい加減な

素読文:

子路しろいわく、衛君えいくんちてまつりごとさば、まさなにをかさきにせんとする。

いわく、かならずやたださんか。
子路しろいわく、これるかな、なるや。なんたださん。

いわく、なるかなゆうや。くんらざるところいて、けだ闕如けつじょたり。ただしからざれば、すなわげんしたがわず。げんしたがわざれば、ことらず。ことらざれば、すなわ礼楽れいがくおこらず。礼楽れいがくおこらざれば、すなわ刑罰けいばつあたらず。刑罰けいばつあたらざれば、すなわたみ手足しゅそくところし。ゆえくんこれづくれば、かならうべきなり。これえばかならおこなうべきなり。くんげんいて、いやしくもするところきのみ。

解釈:
子路曰く「もし衛君が師を迎え政治を委ねられることになったら、師はまず何をなさいますか」

子曰く「先ず名分を正そう」
子路曰く「そうされますか。それでは回りくどくなないでしょうか。名分など正すことに意味があるでしょうか」

子曰く「由(子路のこと)よ、お前は乱暴だな。君子は自分の知らないことについては、謙虚であるものだ。そもそも名分が正しくないと論理がずれる。論理がずれると事は成し遂げられない。事が成し遂げられなければ礼楽が興らない。礼楽が興らないと刑罰が適正とならない。刑罰が適正でないと人民はどうしたら良いか迷うようになる。だから君子は必ずまず名分を正す必要がある。君子は、名分の立たないことを口にすべきでなく、口にしたことは必ずそれを実行にうつさなければならない。いい加減な口をきくような人は、断じて君子とはいえないのだ」

孔子は「刑罰中らざれば、則ち民手足を措く所無し」と言っています。「煽り運転」に対して法改正が行われ厳罰化されましたが、相変わらずニュースでは煽り運転のニュースを目にします。現代の日本人には2500年前の孔子の言葉が届いていないようです。

君子に九思あり

kǒngyuējūnyǒujiǔshìmíngtīngcōngwēnmàogōngyánzhōngshìjìngwèn忿fènnánjiàn

《论语》季氏第十六-10

素読文:
こういわく:“くんきゅうり。るにはめいおもい、くにはそうおもい、いろおんおもい、かたちきょうおもい、げんちゅうおもい、ことけいおもい、うたがいにはうをおもい、忿いかりにはなんおもい、るをてはおもう。”

解釈:
孔子曰く、君子は九つの思いがある。見ることは明らかでありたい。聞くことは聡くありたい。表情は温和でありたい。態度はうやうやしくありたい。言葉は忠実でありたい。仕事は慎重・厳粛でありたい。疑問は人に問い。怒りには後難を考え。儲け話には正義を考える。

君子たるもの「明・聡・温・恭・忠・敬・問・難・義」を大切にせよ、という教えです。