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君子は恭敬惠義

wèichǎn(1)yǒujūnzhīdàoyān:“xínggōngshìshàngjìngyǎngmínhuì使shǐmín” 。

《论语》公冶长第五-16

(1)子产:姓は公孫、名は僑、字名を子産。鄭国の宰相。

素読文:
さんう。くんみちり。“おのれおこなうやきょうかみつかうるやけいたみやしなうやけいたみ使つかうや。”

解釈:
子は子産を称して曰く、子産には君子が守るべき四つの道があった。それは“己の行いに対し謙虚である。上に使えて敬親である。民に対して慈恵深い。民を使役するに道理にかなっている。”の四つである。

孔子は子産が「恭敬惠義」の大夫であったと称し、君子たるもの「恭敬惠義」であらねばならないと説いています。残念ながら現代日本には「恭敬惠義」の為政者が少ない(皆無?)ように思います。

君子は君子によって育つ

wèi“子jiàn(1)jūnzāiruòrén(2)jūnzhěyān(3)。”

《论语》公冶长第五-3

(1)子贱:せん。孔子の弟子。姓はふく、名はせい。魯の人。
(2)若人:かくのごとき人。
(3)斯焉取斯:一番目の『斯』は子賤、二番目の『斯』は君子の徳を指す。

素読文:
せんう、くんなるかな、かくのごときひとくんしゃくんば、これいずくにかこれらん。

解釈:
孔子は子賤を評して言われた「このような人物こそ君子と呼ぶべきだ。もし魯の国に君子が多くいなければ、子賤も君子にはなれなかっただろう」

君子は君子によって育てられる、と言うことでしょう。

孟武伯問う

mèng(1)wèn:“ rén?” yuē:“zhī”。yòuwèn。 yuē:“yóu(2)qiānshèngzhīguó(3)使shǐzhì(4)zhīrén”。
qiú(5)?” yuē:“qiúqiānshìzhī(6)bǎishèngzhījiā(7)使shǐwéizhīzǎi(8)zhīrén。”
chì(9)?” yuē:“chìshùdài(10)cháo(11)使shǐbīn(12)yánzhīrén” 。

《论语》公冶长第五-8

(1)孟武伯:魯の大夫、もう懿子いしの子。
(2)由:孔子の弟子。姓は仲、名は由。あざなは子路。
(3)千乘之国:兵車を千台持っている規模の諸侯の国。
(4)赋:兵
(5)求:孔子の弟子。冉有ぜんゆう、名は求。字は子有。
(6)千室之邑:数千戸程度の町
(7)百乘之家:兵車を100台くらい持っている卿大夫の家
(8)宰:卿大夫の家の長官
(9)赤:孔子の弟子。姓は公西こうせい、名はせき、字は子華。
(10)束带:礼服に締める帯。朝廷で礼服を着用すること。
(11)朝:朝廷
(12)宾客:外国の賓客

素読文:
もうはくう:「子路しろじんなるか。」わく:「らざるなり。」またう。子曰わく:「ゆうや、せんじょうくにそのおさめしむべきなり。其仁を知らざるなり。」
きゅう何如いかん。」子曰わく:「求や、千室せんしつゆう百乗ひゃくじょうの家、これさいたらしむべきなり。其仁を知らざるなり。」
せきや何如。」子曰わく:「赤や、束帯そくたいしてちょうに立ち、賓客ひんかくと言わしむべきなり。其仁を知らざるなり。」

解釈:
孟武伯が問う「子路は仁者でしょうか?」孔子曰く「子路が仁者かどうかはわからない」再び問う。孔子曰く「子路は、千乗の国の軍を治めることはできよう。しかし仁者かどうかはわからない。」
「では子有は仁者でしょうか?」「子有は千戸の邑(町)の代官や百乗の家の宰相を務めることができよう。しかし仁者かどうかはわからない。」
「では子華は仁者でしょうか?」「子華は式服を着け、宮廷で外国の賓客と話し合うことはできよう。しかし仁者かどうかはわからない。」

論語の中で孔子はしばしば人物評を口にしています。この節では子路、子有、子華の3人の弟子が仁者であるかどうかを問われ、答えています。3人の弟子の順位をつけるとすれば、子路:千乗の国の総裁。子有:百乗の町の総裁。子華:朝廷の官吏。ということでしょうか?しかし3人とも仁者であるかどうかはわからない、と答えています。当然3人とも孔子の高弟なので仁者であると考えても良いでしょう。

人には仕事の向き不向きがありそれぞれに能力を発揮する職位がある。しかし仁者かどうかを決定するのはその人の職位によるものではない。孔子はこういうことを孟武伯に伝えたかったのではないでしょうか?

焉んぞ佞を用いん?

huòyuē:“yōng(1)rénérnìng(2)。”yuē:“yānyòngnìngrénkǒu(3)zēngrénzhīrényānyòngnìng?”

《论语》 公冶长第五-5

(1)雍:孔子の弟子。冉雍。字名は仲弓。
(2)佞:口先がうまいこと。
(3)口给:弁舌が立つ。口数が多い。

素読文:
る人曰く、ようや仁なれどねいならず。子曰く、いずくんぞ侫を用いん?人にあたるにこうきゅうを以ってすれば、しばしば人に憎まる。其の仁を知らず。焉んぞ侫を用いん?

解釈:
ある人曰く、雍は仁者であるが弁が立たない。子曰く、どうして弁がたつのが良いのか?弁がたてば人を口数で言い負かし恨まれる。雍が仁者であるかどうかはわからないが、口数が少ないのは悪いことではない。

以前ご紹介した『巧言令色仁鮮なし』では、孔子は口数の多いものは仁の徳が少ない、と言っています。

一を聞いて十を知る

子谓子贡曰:“女与也孰愈?”对曰:“赐也何敢望回?回也问一以知十,赐也问一知二。”子曰:“弗如也!吾与女弗如也。”

《论语》公冶长5.9

は汝の意味。
huíは孔子の弟子・yánhuíの事。
は子贡の本名(姓・端木、名・賜)から

素読文:
子、こういてわく、なんじかいいずれかまされる。こたえて曰わく、や、何ぞあえて回を望まん。回や一を聞きてもって十を知る。賜や一を聞きて以て二を知る。子曰わく、かざるなり。われと女と如かざるなり。

解釈:
孔子が子貢しこうに尋ねました、
「お前と顔回がんかいとどちらが優れているか?」
子貢は、
「私など彼にとても及びません。彼は一を聞いて十を知る事が出来ますが、私は一を聞いて二を知るくらいがせいぜいです。」
と答え、孔子は、
「そのとおり、私もとても顔回には及ばない。私たちはとても彼には及ばないのだ。」
とおっしゃった。

「一を聞いて十を知る」聡明な人を称してこう言います。日本原来の言葉と思っていましたが、原典は論語です。

孔子一番の弟子・顔回(字名は子淵、別名顔淵)は、どちらかというと清貧にして学研の徒という感じです。顔回の求道の姿勢を孔子は高く評価していた様です。しかし孔子より先に夭折してしまう。
孔子は『顏淵死。子曰。噫。天喪予。天喪予。』(先進11.8)と嘆いています。

対する子貢は、弁が立ち高い職に就いています。
この孔子との問答でも、顔回は一を聞いて十を知ると讃えながら「自分は一を聞いて二を知ることができる」としっかりアピールしています。