論語」タグアーカイブ

父母の歳知らざるべからざる

yuē:“zhīniánzhī。”

《论语》里仁第四-21

素読文:
いわく、“父母ふぼとしは、らざるべからざるなり。いつにはすなわもっよろこび、いつにはすなわっておそる。”

解釈:
父母の歳は忘れてはならない。その理由は、歳を重ねることを喜ぶため、そして歳を重ねることを懼れるため。

私にはすでに歳を数えるべき親は亡くなってしまいましたが、20歳年上の義兄があります。久しぶりに電話でもしてみようと思います。

賢者に倣う

yuē:“jiànxiányānjiànxiànérnèixǐng。”

《论语》里仁第四-17

素読文:
いわく:“けんてはひとしからんことをおもい、けんてはうちみずかかえりみるなり。”

解釈:
孔子曰く:“賢者を見たら、自分もそうありたいと願うが良い、不賢者を見たら、自分も同様ではないかと内省するが良い。”

まずは賢者と不賢者を見分ける能力が必要ですね。

原理・原則は忠恕のみ

yuē:“shēn(1)dàoguànzhī。”
zēngyuē:“wéi(2)。”
chūménrénwènyuēwèi?”
zēngyuē:“dàozhōngshù(3)ér。”

《论语》里仁篇第四-15

(1)参:曾子の名。あざなは子輿
(2)唯:目上に対して肯定の意を伝える答え。
(3)忠恕:真心と思いやり

素読文:

いわく:“しんや、わがみちいつもっこれつらぬく。”そういわく、“。”
づ。門人もんじんいていわく“なんいいぞや。”
そういわく“ふうみちは、ちゅうじょのみ。”

解釈:

孔子はそうに対し、「しんよ、私がきかつおこなみちは、たった一つの原理だ。」と言われた。
曾子は「はい」と答えた。ほかの門人たちには何の事かわからず、孔子が退席したのち、曾子に向かって、孔子の言葉の意味を尋ねた。曾子答えて曰く「孔子の道は一言で言えばちゅうじょ(誠実と思いやり)のみである。」

位なきを憂えず、なすべきを求む

yuē:“huànwèihuànsuǒhuànzhīqiúwéizhī。”

《论语》里仁第四-14

素読文:

いわく、“くらいきをうれえず、所以ゆえんうれう。おのれなきうれえず、らるべきすをもとむるなり。”

解釈:
地位のなきを憂うより、自分にそれだけの資格があるかどうかを憂うがいい。自分が世間に認められなことを憂うより、認められるだけの価値のある人間になるように努力するがいい。

ともすれば職位を求めてしまうが、職位にふさわしい人間になるよう努力すべきだ、という意味でしょう。行動が変わるよう努力すれば、自然と職位や給料は上がるものです。

礼譲を尽くす

yuē:“néngràng(1)wéi(2)guóyǒu(3)néngràngwéiguó(4)?”

《论语》里仁篇第四-13

(1)礼让:礼を尽くし謙った態度をとる。
(2)为:治める。
(3)何有:何の難しいことがあろう。
(4)如礼何:制度が叶っていても役には立たない。

素読文:

いわく:“れいじょうもっくにおさめんか、なにらん。れいじょうもっくにおさめずんば、れい如何いかんせん。”

解釈:

孔子曰く“礼を尽くし譲り合う気持ちで国を治めれば、何事もなかろう。礼と譲り合う気持ちがなければ何のなめの礼だろう。”

利己は恨み多し

yuē:“fǎngérxíngduōyuàn。”

《论语》里仁第四-12

素読文:

いわく:“りておこなえば、うらおおし。”

解釈:

己の利で行動すれば人から恨まれることが多くなる。

寛容、敬意、哀悼

yuē:“shàng(1)kuānwéijìnglínsāngāiguānzhīzāi(2)。”

《论语》八佾第三-26

(1)居上:人の上に立つ
(2)何以观之哉:何の見所もない

素読文:

いわく:“かみかんならず、れいしてけいせず、のぞんでかなしまずんば、われなにもってかこれんや。”

解釈:

孔子曰く“人の上に立って寛容でなく、礼を行なうのに敬意なく、葬儀にて悲しい気持になれない人間は、見込みがない。”

人の上に立つものほど寛容、敬意、哀悼の情が必要だということと理解しました。

道を志す者の心得

yuē:“shìzhìdàoérchǐèèshízhěwèi。”

《论语》里仁第四-9

素読文:

いわく:“みちこころざして、あくあくしょくはずものは、いまともはかるにらざるなり。”

解釈:

子曰く:“いやしくも道に志すものが、粗衣粗食を恥じるようでは、話相手とするに足りない。”

道を志すからには、貧乏してはいけない。という意味ではありません。
道を志すからには、貧乏を恥じて恥てはならない。清貧であれという意味です。

しかし道を修めた者が、良い働き口を得て物心共に豊かである、というのが理想の社会かと考えます。

武王に善なし

wèisháo(1)jìnměi(2)yòujìnshàn(3)wèi(4)jìnměiwèijìnshàn

《论语》八佾篇第三-25

(1)韶:舜が作った楽曲。
(2)美:外面的な美
(3)善:道徳的な善
(4)武:周の武王が作った楽曲

素読文:

しょうう、つくせり、またぜんつくせり。う、つくせり、いまぜんつくさざるなり。

解釈:
孔子は舜が作った楽曲・韶を「美しく、善がある」と評した。
武王が作った楽曲を「形式的には美しいが善がない」と評した。

舜は堯から禅譲によって君主となった。一方武王は殷の紂王を武力で滅ぼして帝位についた。この差が「美」と「善」の評価になったようです。

孔子演奏について語る

tàishī(1)yuèyuē:“yuèzhī(2)shǐzuò(3)(4)zòng(5)zhīchún(6)jiǎo(7)(8)chéng(9)。”

《论语》八佾篇第三-23

(1)大师:楽団長
(2)可知也:知ることができる
(3)始作:演奏を始めるとき
(4)翕如:多くの楽器が一斉に鳴る様子
(5)纵如:放つ
(6)纯如:調和のとれたさま
(7)皦如:明らかなさま
(8)绎如:続いて絶えないさま
(9)成:完成する

素読文:

たいがくかたりていわく:“がくるべきなり。はじおこすにきゅうじょたり。これはなちてじゅんじょたり。きょうじょたり。繹如えきじょたり。もっる。”

解釈:

孔子が魯の楽隊長に音楽について語った。
音楽には一定の決まりがあり、難しいことではない。
演奏の開始時には多くの楽器が一斉に鳴るようにする。
そして楽器の音色が調和されつつも、一つ一つの音色を際立たせつつ演奏が途絶えないようにする。このようにして指揮者、演奏者、聴衆が一体となることで、演奏が完結する。