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孔子の四絶

jué(1)(2)(3)(4)

《论语》子罕第九-4

(1)意:自分勝手な心、独善
(2)必:無理強い
(3)固:固執、見識が狭く頑固なこと
(4)我:我欲、利己

素読文:
つ:く、ひつく、く、し。

解釈:
子は四つのしないことがある:独善、無理強い、固執、利己の四つである。

下村湖人は四絶を意:憶断、必:執着、固:固陋、我:他と対立すること、と解釈しています。

陳蔡の野

yuē:“miáoérxiù(1)zhěyǒuxiùérshízhěyǒu。”

《论语》子罕第九-22

(1)秀:米や麦などの作物が穂を出し花を咲かせること。

素読文:
いわく:“なえにしてひいでざるものるかな。ひいでてみのらざるものるかな。”

解釈:
孔子は60歳を過ぎていたが弟子たちと共に衛の霊公を訪ねた。しかしその頃衛の国は父子が対立、不穏な治世だった。孔子は衛での任官を諦め、周辺国を彷徨っている時に陳と蔡の軍勢に囲まれてしまう。
この様な状況で弟子たちの不満が高まっているのを感じ取った孔子は、弟子たちを哀れに思う。
しかし弟子の中には苗のままで終わってしまう者もある。花が咲いても実がならぬ者もある。甘やかさず弟子たちを正しく導かねばならぬと思い直す。

下村湖人は「論語物語」でこの一節をこの様に描写しています。

夫何远之有

tángzhīhuāpiānfǎnérěrshìshìyuǎnér
yuē:“wèizhīyuǎnzhīyǒu。”

《论语》子罕篇第九-31

素読文:

唐棣とうていはなへんとしてはんせり。なんじおもわざらんや。しつとおければなり。
いわく:“いまれをおもわざるかな。なんとおきことからん。”

解釈:

前半は、昔の流行はやりうたか何かでしょう。
下村湖人はこれを
「ゆすらうめの木花咲きゃ招く、ひらりひらりと色よくまねく。
招きゃこの胸こがれるばかり、道が遠くて行かりゃせぬ。」
と訳しています。(「論語物語」)

孔子は、行き詰まって悩んでいる冉求をこう言って慰めたそうです。
歌は恋しくても遠くて会いにゆけないと言っているが、本当に恋しければ道が遠いのも障害にはならない。
倒れる前に自分の力が足りないのを嘆くものではない。

もっと求道心を持てと言いたかったのでしょう。

九夷におらんと欲す

jiǔ(1)huòyuē:“lòu(2)zhī?”yuējūnzhīlòuzhīyǒu!”

《论语》子罕第九-14

(1)九夷:中国古代の東方の少数民族
(2)陋:未開のところ

素読文:

きゅうらんとほっす。あるひといわく、ろうなり。これ如何いかんせん。いわく、くんこれらば、なんろうこれらん。

解釈:
孔子は九夷に居を移したいという。ある者は九夷は未開の野蛮なところですと諌める。君子が行けば未開のままではなかろうと君子は言う。
文明のひらけた都会であっても徳のある人ばかりではない。未開の地で道を説けば理想の社会ができる、孔子はそう考えたのでしょうか。

少くして賎し、故に鄙事に多能なり

tàizǎi(1)wèngòngyuē:“shèngzhěduōnéng。”

gòngyuē:“(2)tiānzòng(3)zhījiāngshèngyòuduōnéng。 ”

wénzhīyuē:“tàizǎizhīshàojiànduōnéngshì(4)jūnduōzāiduō。”

láo(5)yuē:“yúnshì。”

《论语》子罕第九-6

(1)太宰:官吏の名称
(2)固:まことに
(3)纵:ほしいままに許す
(4)鄙事:卑賤な事柄
(5)牢:孔子の弟子。司馬遷・史記の「仲尼弟子列伝」には見当たらない

素読文:
太宰たいさいこういていわく:“ふう聖者せいじゃか。なんのうなるや。”
こういわく、“もとよりてんこれゆるしてまさせいならんとす。またのうなり。”
これきていわく、太宰たいさいわれるか。われわかくしていやし。ゆえ鄙事ひじのうなり。くんならんや、ならざるなり。”
ろういわく、“う、われもちいられず。ゆえげいあり。”

解釈:
太宰が子貢に問うて言う「孔子こそ聖者と呼ぶべきでしょう。実に多能だ」
子貢が答えて言う「まさに天より許された方であり聖者と呼ぶべき方でしょう。その上多能です」
孔子はそれを聞き言う「太宰は私のことをよく理解されている。幼い頃から貧しかったので、つまらぬことに多能である。しかし君子たる者、多能であれば良いのだろうか。多能であれば君子である、とは言えないだろう」
孔子の弟子・牢はこう言っている。「孔子は世に用いられなかったので、多芸になったとおっしゃっていた。」

最後の一節は中国では《論語》子罕第九-7としています。

孔子は魯国の下級官吏に任官しますが、その後弟子とともに諸国を遊説するも、どこからも任官の要請はありませんでした。そのため一国の雑事にとらわれることなく、儒教の昇華と弟子の育成に専念できたのでしょう。

子罕に利をいう

hǎnyánmìngrén

《论语》子罕第九-1

素読文:
まれめいじんとをう。

解釈:
孔子はめったに利益の問題にはふれられなかった。たまたまふれられると、必ず天命とか仁と結びつけて話された。

与を「〜および」と解釈すると、
孔子はめったに利益と天命と仁について語らなかった。
となります。しかし論語の中には『仁』に関する記述が多くあります。

また与を「賛同、肯定」と解釈している例もあります。この場合は、
孔子はめったに利益について語らなかったが、天命や仁を賛同した。
という解釈になります。

与を「〜と結びつけて」と解釈するのが一番しっくりします。

仁者憂えず

yuē:“zhīzhěhuòrénzhěyōuyǒngzhě。”

《论语》子罕第九-29

素読文:
子曰く、知者はまどわず。仁者はうれえず。勇者はおそれず。

解釈:
子曰く、知恵ある者はあれこれ迷わない。仁の徳ある者は憂えない。勇気ある者は懼れない。

知恵があれば正しい選択ができ、あれこれ迷うことはない。
徳があれば他者への思いやりを持てる。自己に向けた憂いの感情はなくなる。
勇気があれば恐れることはなくなる。

『仁者』とは、自己の憂いから自由になっている人のことだと言えるでしょう。
憂いは自分中心に考えるところから発生します。

以下のエントリーで『仁』について考えました。
『孝悌』は親や目上の人に対する思いやり。
『巧言令色』は相手を立てるためというよりは、自己の利益を中心に考える利己心から生まれるモノでしょう。

「仁」とは利己より利他を優先する思いやりの徳と考える事ができそうです。