子曰:“雍(1)也可使南面(2)。”
《论语》雍也第六-1
Create by 音読さん
(1)雍:姓は冉、名は雍、字は仲弓
(2)南面:君主に位に就く事。
素読文:
子曰く:“雍や南面せしむべし。”
解釈:
孔子曰く:“雍は君主の風格がある。君主の位に就くことができよう。”
賢者・孔子は国を治めることはありませんでした。仲弓に期待していた様です。
子曰:“雍(1)也可使南面(2)。”
《论语》雍也第六-1
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(1)雍:姓は冉、名は雍、字は仲弓
(2)南面:君主に位に就く事。
素読文:
子曰く:“雍や南面せしむべし。”
解釈:
孔子曰く:“雍は君主の風格がある。君主の位に就くことができよう。”
賢者・孔子は国を治めることはありませんでした。仲弓に期待していた様です。
久しぶりに野球中継に釘付けとなった。中国で暮らしていた頃は、野球中継が見られなく(日本食呑み屋に行けば見る事はできるが、エンゲル係数が上が跳ね上がる)一球ごとにストライク・ボール、打球の行方、アウト・セーフ情報を更新するアプリで観戦していた。翌朝新聞記事を読めば事足りる話だが、それでも野球ファンとしては(ほぼ)リアルタイムで観戦したかった。
日本に帰国するのは春節の時期なので、野球中継は10年以上見ていなかった。
TV観戦は球場で観戦するのと比べれば臨場感は相当劣るだろうが、チャンスやピンチには思わず大きい声が出てしまう。その度に横で寝ている老犬を驚かすことになった(笑)
試合経緯や結果については読者の皆様は既にご存知のことだろう。ここでは触れない。
今・浦島太郎の自分には選手名でわかるのは大谷翔平くらいだ(苦笑)
なぜ侍ジャパンに外国人が入っているのかなど、TV観戦中に家人に質問して煩がられた。それよりも全く野球に興味がなかった家内が、選手の顔と名前を認識しているのに驚いた。日本国中ににわか野球ファンが増えた様だ。
日本のチームを見ていて、当然のことながら、日本らしいチームだと感じた。毎試合ベンチにユニフォームが2着吊るしてある。不思議に思っていた。調べてみると、代表に選ばれたが怪我などで出場辞退選手のユニフォームだという。
参加できなかった仲間を思う監督、コーチ、選手の想いなのだろう。こういうチームだから自分が持てる力以上の働きができるのだろう。
このコラムは、2021年3月24日に配信したメールマガジン【中国生産現場から品質改善・経営革新】第1423号に掲載した記事です。
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【中国生産現場から品質改善・経営革新】
警報スピーカーにトイレ紙 運転士が音量絞る? JR西
JR西日本は6日、列車の緊急時に自動で非常ブレーキがかかる「緊急列車停止(EB)装置」で、運転席に設置されたスピーカーに紙を挟み、音量を絞る「細工」をしていたケースが計10両で見つかったと発表した。同社はスピーカー音をうるさく感じた運転士がかかわった可能性が強いとみており、
再発防止に向けて指導を徹底する。JR西によると、EB装置は2005年4月の宝塚線(福知山線)脱線事故を機に設置が義務づけられた。列車の運転席に設置され、1分間にわたって運転操作が行われないと警報音が鳴る。その際に運転士が確認ボタンを押すか運転操作をしないと、5秒後に非常ブレーキがかかる仕組みになっている。
スピーカー音を小さくする「細工」が発覚したのは、山陰線で8月31日に発生したトラブルが発端だった。
島根県東出雲町のトンネル内で、普通列車のEB装置が作動し、非常ブレーキがかかり停止した。運転士が「スピーカーの警報音が小さく気づかなかった」と報告。車両基地で調べた結果、スピーカー(直径約7センチ)のふたと本体の間にトイレットペーパーが挟まれていた。
JR西が同じスピーカーの構造を持つ1594両を一斉点検したところ、山陰線のほか、和歌山線や山陽線、呉線などの車両9両でも同様の細工を確認。各路線の運転士約1300人から事情を聴いたが、だれが細工をしたのかは判明していないという。
8月18日には、24両の電車で自動列車停止装置(ATS)の作動を知らせるスピーカーにテープが張られていた問題が判明したばかり。JR西は「安全に重大な影響はないが、運転室内の機器類の適切な取り扱いについて指導を徹底する」としている。
(asahi.comより)
先週はメンテナンスのミスで事故が発生した事例をご紹介したが、今週のニュースはもっと深刻だ。まだ事故にはつながっていないが、今回の場合は「ミス」によるものではなく、「故意」によるものだからだ。
このニュースを見ると、かなり根が深そうだ。
今年3月31日に発生した事故から時系列に並べてみるとこうなる。
3月31日:JR西日本が、運転士が意識を失うなどした際に自動的に非常ブレーキをかけるEB(緊急列車停止)装置が働かない状態で、列車を運行していたことが31日わかった。2年間で少なくとも4件あり、このうち1件は装置そのものが取り外されたまま18日間運行していた。
8月4日:JR西日本が、運転士に急変があった場合に自動で非常ブレーキをかける緊急列車停止(EB)装置の電源が切れた状態で電車を運行していた
ことがわかった。定期点検時のミスが原因とみられる。今年3月にもEB装置を取り外したまま運行するなどの不備が4件発覚し、再発防止策を講じたはずだった。
8月16日:ATSは、ブレーキをかける必要性などを運転士に知らせ、必要な操作をしないと、自動的にブレーキがかかる。6月に運転士から「ATSの音が小さい」と申告があり、該当する320両を調べたところ、103系24両で、スピーカーにテープが張ってあるのが確認された。
JR西日本はこの事件に対して、真剣に再発防止を考えていないとしか考えられない。
3月31日の問題発見時に、ナゼ今回のスピーカの音量調整を防げなかったかが、問題だ。EB装置の電源が入っていないという事故から、EB装置の作動を知らせるスピーカにも「未然対策」を広げるべきである。
EB装置に電源が入っていない(EB装置そのものがない)という状況によって失われる機能は、
これら失われる機能に対しどう対策をするのか、という視点が必要だ。
素人である私にも、スピーカの点検は、3月の時点で行うべきものと分かる。
8月16日になって、スピーカにテープが張ってあることに気がつき、再点検をしている。しかし9月4日にスピーカにトイレットペーパーがはさまれているのが発見されている。
8月16日に見つかったのはATSのスピーカであり、9月4日はED装置のものだ。
スピーカが違うので8月にはED装置のスピーカの点検は出来なかった、というのでは情けない。機能から類推すれば、容易に水平展開できたはずだ。
こういうのをもぐら叩きと言う。
もぐら叩きとなってしまう真因はかなり深いところにあると見ている。
そもそもED装置が導入されたのは、2005年4月の宝塚線(福知山線)脱線事故を機に06年、国土交通省が省令を改正しED装置の設置を義務づけたからだ。
ED装置、ATSともに運転手がブレーキ操作をしなかった場合に、自動的に緊急停止をかける機能を持っている。そのため毎回事件を発見した際の記者会見では「ATSがあるので事故にはつながらない」とJR西日本は釈明している。
このような考えが根底にあり、毎回の対策が本気になっていないと推測して
いる。
例えば、ED装置が実装されていない状態で運転したという不具合が見つかった時に打った対策は、
本気で対策するならば、作業者や運転手の注意力に頼るのではなく、ED装置が動作していなければ運転が出来ないように改造すべきだ。
当然それにはコストがかかる。コストがかけられなければ、運転台にあるED操作スイッチのそばに、ED装置の電源と連動したパイロットランプを付けておくだけで、運転手の負担を増やさずに点検をすることが出来たはずだ。
たぶん現場の全員が、国土交通省が出してきたED取り付けという宝塚線脱線事故の対策を信じていないからだろう。現場からかけ離れた「空論」で作られた対策は、効果がないばかりか、現場の統率も得られない。
あなたの工場に、
そんな問題があれば、ぜひ見直していただきたい。
このコラムは、2010年9月13日に配信したメールマガジン【中国生産現場から品質改善・経営革新】第170号に掲載した記事に加筆しました。
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【中国生産現場から品質改善・経営革新】
(1)十室之邑:十戸ほどの小さな村
(2)丘:孔子の名
素読文:
子曰く:“十室の邑、必忠信丘のごとき者有らん。丘の学を好むに如ざるなり。”
解釈:
孔子曰く:“十戸ほどの村なら、自分程度の忠信の者は必ずいるだろう。しかし私ほど学を好む者はない”
学を好み忠信なき輩は、害あるのみ。忠信ありて学を好まざる者は進歩なし。ということでしょうか。
《《论语》公冶长第五-27
素読文:
子曰く:“已んぬるかな。吾未だ能く其の過を見て、内に自から訟る者を見ざるなり。”
解釈:
孔子曰く:“ひどい世の中になってしまったものだ。過ちを自ら見つけ自らを責める者を見なくなってしまった”
孔子の時代から、言い訳で問題を隠す者がいたようです。
《论语》公冶长第五-25
(1)巧言:巧みな言葉
(2)令色:上辺だけ取り繕った表情
(3)足恭:度を越した恭しさ
(4)左丘明:姓は左丘、名が明。春秋時代、魯国の史学者。
素読文:
子曰く、巧言・令色・足恭なるは、左丘明之を恥ず。丘も亦之を恥ず。怨みを匿して其の人を友とするは、左丘明之を恥ず。丘も亦た之を恥ず。
解釈:
巧言令色少なし仁と孔子は言っています。
本章では巧言令色・足恭は恥ずべき態度だと言っています。更にそういう人を友とすることも恥であると切り捨てています。
子曰:“孰谓(1)微生高(2)直(3),或乞酰(4)焉,乞诸其邻而与之。”
《论语》公冶长第五-24
(1)孰谓:誰が〜と言うか
(2)微生高:魯の人。姓は微生、名は高。正直者として有名。
(3)直:正直な人
(4)酰:酢
素読文:
子曰く:“孰か微生高を直なりと謂うや。或醯を乞う。諸を其の隣に乞いて之に与えたり。”
解釈:
孔子曰く:“誰が微生高を正直者などと言っているのか?彼は酢を借りにきた者に、隣からもらって与えたのだ。”
酢を借りにきた者に「今はないから隣で借りろ」とだけ言うより、自分で隣に借りに行ってやる方が親切だと思うのですが。
子曰:“宁武子(1),邦有道(2)则智,邦无道(3)则愚;其知可及也,其愚不可及也。”
《论语》公冶长篇第五-21
(1)宁武子:衛の大夫。姓は宁、名は兪、武は諡。暗愚な成公に仕えたが、よく助けた。
(2)邦有道:国が秩序よく治っている
(3)无有道:国の秩序が乱れている
素読文:
子曰く:“寧武子は、邦に道有れば則ち知、邦に道無ければ則ち愚なり。其の知は及ぶべきなり。其の愚は及ぶべからざるなり。
解釈:
子曰く:“寧武子は国が治まっているときは、その手腕を認められ知者と言われたが、国が乱れている時は、愚者と言われた。知者としての振る舞いは真似できるが、愚者の役割を引き受けるのは難しかろう”
愚者として振る舞うことにより君主の悪政を庇った、と言うことなのでしょうか。
本当の知者ならば、君主の悪政を諌め善政に導くべきだと考えるのは理想論に偏りすぎでしょうか。
季文子(1)三思而后行,子闻之,曰:“再,斯可矣。”
《论语》公冶长篇第五-20
(1)季文子:魯の国の家老。姓は季孫、名は行父、文子はその諡。宣公・成公・襄公の三君のときの宰相
素読文:
季文子は三たび思いて而る後に行なう。子、之を聞きて曰く、“再せば斯れ可なり。”
解釈:
季文子は何事も三たび考えてから行なった。孔子はそれを聞いていわれた。“二度考えたら十分だ”
何事も熟考の上、行動することが必要ですが、孔子は考えるのは二度までにしておけ、と言っています。三度考えている間に、状況が変わってしまうこともあるでしょう。
二度考えて答えが違っていれば、三度目を考える必要がありそうですが。
子曰:臧文仲(1)居(2)蔡(3),山节藻梲,何如其知也。
《论语》公冶长第五-18
(1)臧文仲:魯の大夫。姓は臧孫、名は辰、字は仲、文は諡。魯の大夫。孔子の出生より六十六年前に死去。当時、知者として知られた。
(2)居:蔵める
(3)蔡:占いに用いる大きな亀の甲。天子が用いるものであり、大夫の臧文仲には分不相応。
素読文:
子曰く:“臧文仲、蔡を居き、節を山にし、梲に藻す。何如ぞ其れ知ならんや。”
解釈:
孔子曰く“臧文仲は、諸侯でもないのに、国の吉凶を占う蔡をもっている。しかもそれを置く節には山の形をきざみ、梲には水草の模様を描いているが、それは天子の廟の装飾だ。世間では彼を知者だといっているが、こんな身のほど知らずが、なんで知者といえよう”
孔子は「蔡」を所有している臧文仲を分不相応と批判しています。
臧文仲は自らの領地の安寧を願って占いをしていたのでしょう。