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君子は自責で考え、小人は他責で考える

yuē:“jūnqiúzhūxiǎorénqiúzhūrén。”

《论语》卫灵公第十五-21

素読文:
わく:“くんこれおのれもとめ、しょうじんこれひともとむ。”

解釈:
君子は何事も自責で考え、小人は何事も他責で考える。
自責で考えるから解決方法が見つかる。他責で考えれば解決方法はなく、己の不運を嘆くだけとなる。

例えば会社の経営がうまくゆかないのは不景気のせい(他責)だと考える経営者(小人)は、自分では景気を改善することはできず、不景気を呪うのみである。
会社の経営がうまくいかないのは、自分の経営方法が悪いから(自責)だと考える経営者(君子)は、経営方法を改善する努力により経営を立て直すことができる。

窮して濫れず

zàichén(1)juéliáng(2)cóngzhěbìng(3)néngxīng(4)yùn(5)jiànyuē:“jūnyǒu?” yuē:“jūn(6)qióng(7)xiǎorénqiónglàn。”

《论语》卫灵公第十五-2

(1)陈:国名。河南省にあった小国。
(2)绝粮:食料が絶える。
(3)病:飢えて疲れ果てる。
(4)莫能兴:立ちあがることができない。
(5)愠:いかる。
(6)固:もとより、元々。
(7)穷:窮する。行き詰まる。

素読文:
ちんりてりょうつ。じゅうしゃみて、つことし。子路しろいかりてまみえてわく:“くんきゅうすることるか。” わく:“くんもとよりきゅうす。しょうじんきゅうすればここみだる。”

解釈:
卫灵公第十五-1で衛の霊公が戦陣について孔子に尋ねている。孔子は戦争が始まると考え、衛の国を逃れる。
陳の国に逃げ延びたあたりで、食料がつき弟子たちも空腹で起き上がることもできなくなった。
子路が憤慨して孔子に問う。「君子も窮することがあるでしょうか」
孔子は答えて曰く「君子とて窮することはある。しかし小人は窮した上に取り乱す」

小人は窮すれば濫れる。君子は窮しても濫れない。

君子は上達、小人は下達

yuē:“jūnshàng(1)xiǎorénxià(2)。”

《论语》宪问第十四-23

(1)上达:深遠な問題を理解できる。
(2)下达:つまらぬこと、身近な問題に通じる。

素読文:
わく:“くんじょうたつし、しょうじんたつす。”

解釈:
子曰く:“君子は上へ上へと進み、小人は下へ下へと進む”

君子たらんと欲するものは、常に己を高めようと精進しなければならない。小人の如く下世話な世事に関わっている暇はない。

小人に仁者なし

yuē:“jūnérrénzhěyǒuwèiyǒuxiǎorénérrénzhě。”

《论语》宪问第十四-6

素読文:
わく:“くんにしてじんなるものらんか。いましょうじんにしてじんなるものらざるなり。

解釈:
子曰く:“君子は仁を志すが、時として不仁な行いをする者もある。しかし小人は仁を志してはいないので皆仁者ではない。”

本物の仁者は一年365日、一日24時間ずっと仁者だと思います。君子たる者一年365日一日24時間仁者であることを目指すべきかと思いますが、時として不仁な考えが心をよぎることもあるでしょう。しかし君子であるべき地位にあっても、私利私欲に囚われ不仁な行いをする者は、小人となります。

君子は泰にして驕らず

yuē:“jūntài(1)érjiāo(2)xiǎorénjiāoértài。”

《论语》子路第十三-26

(1)泰:落ち着きがある。余裕がある。
(2)骄:驕り高ぶる。威張る。

素読文:
わく:“くんたいにしてきょうならず。しょうじんきょうにしてたいならず。

解釈:
子曰く:“君子は泰然としており驕らない。小人は驕り高ぶるが、泰然としたところがない。”

日本では「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」と言います。
充実した稲穂はその重みで垂れ下がる。中身がスカスカの稲穂はまっすぐ空に向かって立っています。

君子に仕えるか、小人に仕えるか

yuē:“jūnshì(1)érnányuè(2)yuèzhīdàoyuè使shǐrénzhī(3)xiǎorénnánshìéryuèyuèzhīsuīdàoyuè使shǐrénqiúbèiyān。”

《论语》子路第十三-25

(1)易事:仕事を共にする。
(2)说:yuèと同じ意味。よろこばせる。
(3)器:才能

素読文:
子曰わく:“君子はつかやすくしてよろこばせがたきなり。これよろこばすにみちもってせざれば、よろこばざるなり。そのひと使つかうにおよびてや、これにす。しょうじんつかがたくしてよろこばせやすきなり。これよろこばすにみちもってせずといえども、よろこぶなり。ひと使つかうにおよびてや、そなわるをもとむ。”

解釈:
子曰く:“君子は仕えやすいが、機嫌はとりにくい。機嫌をとろうとしても、こちらが道にかなっていないと悦ばない。しかし人を使う時には、それぞれの器量に応じて使う。小人は、仕えにくいが機嫌はとりやすい。こちらが道にかなわなくても、機嫌をとろうと思えばわけなくできる。しかし人を使う時には、すべてに完全を求めて無理な要求をする。”

君子たるもの部下の力量を見極め、適切な者に仕事を任せなければなりません。
部下の力量を見誤り、無理な仕事を任せる。そして失敗すれば部下の責任として切り捨てる。こういう人が小人です。

士たる者は如何に振る舞うべきか

gòngwènyuēwèizhīshì(1)
yuēxíngyǒuchǐ使shǐfāngjūnmìngwèishì
yuēgǎnwèn
yuēzōngchēngxiàoyānxiāngdǎngchēngyān
yuēgǎnwèn其次qícì
yuēyánxìnxíngguǒ(2)kēngkēng(3)ránxiǎorénzāiwéi
yuējīnzhīcóngzhèngzhě
yuēdòushāozhīrén(4)suàn

《论语》子路第十三-20

(1)士:周代の身分制度では士は貴族層の最下層。
(2)果:果断,坚决。断固として
(3)硁硁:石を叩く音、ここでは頭が硬い人を指す。
(4)斗筲之人:筲は竹で作った水桶。ここでは器量の小さい人物を指す。

素読文:
こう問いて曰わく:“何如いかなればこれうべきか。”
子曰わく:“おのれおこなうにはじり。ほう使つかいして君命くんめいはずかしめざるを、士とうべし。”
曰わく:“あえの次を問う。”
曰わく:“宗族そうぞくこうしょうし、きょうとうていを称す。”
曰わく:“敢て其の次を問う。”
曰わく:“言うことかならしんおこなうこと必ず硜硜然こうこうぜんとして小人なるかな。そもそももって次とすべし。”
曰わく:“今のまつりごとしたがう者は何如いかん。”
子曰わく:“ああそうひとなんかぞうるにらんや。”

解釈:
子貢問いて曰く「士たる者どのように振る舞うべきでしょうか?」
孔子曰く「己の行動について恥を知り、外に出ては君主を辱めない。このような人物であれば士といってよかろう。」
子貢曰く「その下はいかがでしょうか?」
孔子曰く「親族から孝行者と褒められ、近隣の者から年長者を敬うと評判されるような者だろう。」
子貢曰く「さらにその下は?」
孔子曰く「口に出したことは必ず守る。行動は断固として成し遂げる。このような者は頭が固く小人と言えるが、その次くらいの価値はある。」
子貢曰く「まつりごとに携わる者はいかがでしょうか?」
孔子曰く「ああ、だめ。小さなますほどの器量しかなく、勘定に入れるほどでもない。」

いつの世も為政者の評価は低いものですね(笑)

樊遅 農を学ばんと請う

fánchí(1)qǐngxuéjià(2)
yuē:“lǎonóng
qǐngxuéwéi(3)
yuē:“lǎo。”
fánchíchū
yuē:“xiǎorénzāifánshànghàomíngǎnjìngshànghàomíngǎnshànghàoxìnmíngǎnyòngqíngshìfāngzhīmínqiǎng(4)érzhìyānyòngjià。”

《论语》子路第十三-4

(1)樊迟:孔子の弟子。姓ははん、名はしゅあざなは子遅
(2)稼:穀物を植える
(3)圃:畑
(4)襁:子供を背負うカゴ

素読文:
はんまなばんとう。
子曰わく:“われ老農ろうのうかず。
つくることをまなばんとう。
曰わく:“吾はろうに如かず。
樊遅ず。
子曰わく:“しょうじんなるかなはんしゅや。かみれいこのめば、すなわたみあえけいせざるし。かみこのめば、すなわたみあえふくせざるし。かみしんこのめば、すなわたみあえじょうもちいざるし。くのごとくならば、すなわほうたみの子を襁負きょうふしていたらん。いずくんぞもちいん。

解釈:
樊遅は穀物栽培について教えを請うた。
子曰く「私は穀物農家にはかなわない」
樊遅は野菜の栽培について教えを請うた。
子曰く「私は野菜農家にはかなわない」
樊遅は退出する。
孔子曰く「樊遅は小人だ。上に立つ者が礼を重んずれば、民は上に立つ者を敬する。上に立つ者が義を重んじれば、民は上に立つ者に服する。上に立つ者が信を重んすれば、民は情を重んずる。もしそうなれば、民は四方から子を背負って集まってくるだろう。為政者に農業の知識など必要ない。

国を治める者にとって重要なのは、殖産興業の知識や技術よりも「礼」「義」「信」だ、ということです。

君子の徳、小人の徳

kāng(1)wènzhèngkǒngyuē:“shādào(2)jiùyǒudào(3)?”

kǒngduìyuē:“wéizhèngyānyòngshāshànérmínshànjūnzhīfēngxiǎorénzhīcǎocǎoshàngzhīfēngyǎn”。

《论语》颜渊第十二-19

(1)季康子:国の三人の家老の一人。姓は季孫、名は肥、康はおくりな
(2)无道:道徳に外れた者。無法者。
(3)有道:道徳のある者。道を守る者。

素読文:
こうまつりごとこういてわく、どうころして、もっ有道ゆうどうかば、何如いかん。孔子こたえて曰わく、まつりごとすに、いずくんぞさつもちいん。ぜんほっすればたみぜんなり。君子のとくかぜなり、しょうじんとくくさなり。草これに風をくわうればかならす。

解釈:
季康子は孔子に政治について尋ねた。“無道な者を殺し、有道な者を助ける政策はいかがか”
孔子答えて曰く。“政治を行うのに人を殺す必要などない。あなたが善を望めば、民は自ずと善に向かう。君子の徳は風、小人の徳は草なり。風が吹けば草はその方向になびくものだ。”

親は子供が不道徳なことをすれば叱ります。しかし親が不道徳であれば、子供は親の行いを真似ます。最も良い躾けは、親自らが道徳を守ることでしょう。為政者(君子)と小人(民)の間でも同じことです。
君子の徳は風、小人の徳は草、言い得て妙です。人の上に立つ者は、他人に良い影響を与える風とならねばなりません。

君子は人を助け、小人は人を妬む

yuējūnchéngrénzhīměichéngrénzhīèxiǎorénfǎnshì

《论语》颜渊第十二章-16

素読文:
子曰わく:“君子は人のし、人のあくさず。小人はこれはんす。”

解釈:
君子は人の美点を賞賛し助長するが、人の欠点には触れない。小人はその逆である。

君子は自ら自己の美点を伸ばし、欠点を抑えようとしているので、他人に対しても同じ態度でいられる。
しかし小人は他人の美点を妬む心があり、他人の欠点をあげつらう傾向を持つ。
君子は基準を自己の中に持っているが、小人は自己の基準がないために他人と比較をして妬んだり優越感を持ったりするのでしょう。