中国文化・中国語」カテゴリーアーカイブ

寛容、敬意、哀悼

yuē:“shàng(1)kuānwéijìnglínsāngāiguānzhīzāi(2)。”

《论语》八佾第三-26

(1)居上:人の上に立つ
(2)何以观之哉:何の見所もない

素読文:

いわく:“かみかんならず、れいしてけいせず、のぞんでかなしまずんば、われなにもってかこれんや。”

解釈:

孔子曰く“人の上に立って寛容でなく、礼を行なうのに敬意なく、葬儀にて悲しい気持になれない人間は、見込みがない。”

人の上に立つものほど寛容、敬意、哀悼の情が必要だということと理解しました。

道を志す者の心得

yuē:“shìzhìdàoérchǐèèshízhěwèi。”

《论语》里仁第四-9

素読文:

いわく:“みちこころざして、あくあくしょくはずものは、いまともはかるにらざるなり。”

解釈:

子曰く:“いやしくも道に志すものが、粗衣粗食を恥じるようでは、話相手とするに足りない。”

道を志すからには、貧乏してはいけない。という意味ではありません。
道を志すからには、貧乏を恥じて恥てはならない。清貧であれという意味です。

しかし道を修めた者が、良い働き口を得て物心共に豊かである、というのが理想の社会かと考えます。

武王に善なし

wèisháo(1)jìnměi(2)yòujìnshàn(3)wèi(4)jìnměiwèijìnshàn

《论语》八佾篇第三-25

(1)韶:舜が作った楽曲。
(2)美:外面的な美
(3)善:道徳的な善
(4)武:周の武王が作った楽曲

素読文:

しょうう、つくせり、またぜんつくせり。う、つくせり、いまぜんつくさざるなり。

解釈:
孔子は舜が作った楽曲・韶を「美しく、善がある」と評した。
武王が作った楽曲を「形式的には美しいが善がない」と評した。

舜は堯から禅譲によって君主となった。一方武王は殷の紂王を武力で滅ぼして帝位についた。この差が「美」と「善」の評価になったようです。

孔子演奏について語る

tàishī(1)yuèyuē:“yuèzhī(2)shǐzuò(3)(4)zòng(5)zhīchún(6)jiǎo(7)(8)chéng(9)。”

《论语》八佾篇第三-23

(1)大师:楽団長
(2)可知也:知ることができる
(3)始作:演奏を始めるとき
(4)翕如:多くの楽器が一斉に鳴る様子
(5)纵如:放つ
(6)纯如:調和のとれたさま
(7)皦如:明らかなさま
(8)绎如:続いて絶えないさま
(9)成:完成する

素読文:

たいがくかたりていわく:“がくるべきなり。はじおこすにきゅうじょたり。これはなちてじゅんじょたり。きょうじょたり。繹如えきじょたり。もっる。”

解釈:

孔子が魯の楽隊長に音楽について語った。
音楽には一定の決まりがあり、難しいことではない。
演奏の開始時には多くの楽器が一斉に鳴るようにする。
そして楽器の音色が調和されつつも、一つ一つの音色を際立たせつつ演奏が途絶えないようにする。このようにして指揮者、演奏者、聴衆が一体となることで、演奏が完結する。

管仲

yuē:“guǎnzhòng(1)zhī(2)xiǎozāi。”
huòyuē:“guǎnzhòngjiǎn(3)。”
yuē:“guǎnshìyǒusānguī(4)guānshì(5)shè(6)yānjiǎnránguǎnzhòngzhī?”
yuē:“bāngjūnshùménguǎnshìshùménbāngjūnwéiliǎngjūnzhīhǎoyǒufǎndiàn(7)guǎnshìyǒufǎndiànguǎnshìérzhīshúzhī。”

《论语》八佾第三-22

Created By ondoku3.com

(1)管仲:せいの宰相。姓は管。あざなは仲
(2)器:人の器の大きさ
(3)俭:倹約
(4)三归:三つの邸宅
(5)官事:家臣の仕事
(6)不摄:兼務をしない
(7)反坫:祝宴で盃を置く台

素読文:

いわく、かんちゅううつわしょうなるかな。あるひといわく、かんちゅうけんなるか。いわく、かんさんり。かんことかねず。いずくんぞけんなるをん。しからばすなわかんちゅうれいれるか。いわく、邦君ほうくんじゅしてもんふさぐ。かんじゅしてもんふさぐ。邦君ほうくんりょうくんよしみをすに、反坫はんてんあり。かん反坫はんてんり。かんにしてれいらば、たれれいらざらん。

解釈:

孔子曰く:“管仲は人物が小さい”
ある人が訪ねた“それは管仲はつましいという意味ですか?”
孔子曰く:“つましいとは言えまい。三帰台さんきだいというぜいたくな高台を作り、また、家臣をたくさん雇い、それぞれに兼任をさせなかった”
“では管仲は礼を心得て、例の様式に従ったのでしょうか?”
“そうとは言えまい。門内に塀を立てて目かくしにするのは諸侯の邸宅のきまりだが、管仲も大夫の身分でそれを立てた。また、酒宴に反坫はんてんを用いるのは諸侯同士の親睦の場合だが、管仲もまたそれをつかった。それで礼を心得ているといえるなら、誰でも礼を心得ているだろう”

孔子の管仲評価はかなり低かったようです。

哀公問う

āigōng(1)wènshèzǎi(2)zǎiduìyuēxiàhòushì(3)sōngyīnrén(4)bǎizhōurén(5)yuē使shǐmínzhànwénzhīyuēchéngshì(6)shuōsuìshì(7)jiànwǎng(8)jiù

《论语》八佾第三-21

(1)哀公:魯の国の君主
(2)宰我:姓は宰、名は予、あざなは子我
(3)夏后氏:夏王朝
(4)殷人:殷王朝
(5)周人:周王朝
(6)成事:出来てしまったこと
(7)遂事:済んでしまったこと
(8)既往:過ぎ去ったこと

素読文:

哀公あいこうしゃさいう。さいこたえていわく、こうまつもってし、殷人いんひとはくもってし、しゅうひとくりもってす。いわく、たみをして戦栗せんりつせしむ。これきていわく、せいかず、すいいさめず、おうとがめず。

解釈:

哀公あいこうさいに社の神木についてたずねた。
宰我答えて曰く「夏の時代には松を植えた。殷の時代には柏を植えた。周の時代からは、栗を植えることになったが、それは人民を戦慄せんりつさせるという意味です」
孔子はこれを聞いて曰く「できてしまったことは、いっても仕方がない。やってしまったことは、いさめても仕方がない。過ぎてしまったことは、とがめても仕方がない」

あれこれと、罰を与えることで人々を治めることはできないと孔子は言いたかったのでしょうか。

関雎の詩

yuē:“guān(1)éryín(2)āiérshāng(3)。”

《论语》八佾第三-20

(1)关雎:詩経の最初の詩。夫婦が仲良く礼儀正しい事を言っている。
(2)淫:耽溺する。
(3)伤:悲しみに心や体を病む。

素読文:

いわく:“関雎かんしょたのしみていんせず、かなしみてやぶらず。”

解釈:

孔子曰く:“関雎の詩は楽しみて耽溺していない、哀しみて折れていない”

以下は关雎の詩原文です。

『周南·关雎』
关关雎鸠,在河之洲。窈窕淑女,君子好逑。
参差荇菜,左右流之。窈窕淑女,寤寐求之。
求之不得,寤寐思服。悠哉悠哉,辗转反侧。
参差荇菜,左右采之。窈窕淑女,琴瑟友之。
参差荇菜,左右芼之。窈窕淑女,钟鼓乐之。

主従関係は礼と忠

dìnggōngwènjūn使臣shǐchénchénshìjūnzhīkǒngduìyuējūn使shǐchénchénshìjūnzhōng

《论语》八佾篇第三-19

素読文:

定公ていこうう、きみしん使つかい、しんきみつかうるには、これ如何いかんせん。こうこたえいわく、きみしん使つかうにれいもってし、しんきみつかうるにちゅうもってす。

解釈:

定公は問う「君主は家臣を使い、家臣は君主に仕える、この関係をどうしたら良いか」
孔子答えて曰く「君主は臣をつかうに禮を持ってし、臣は君主に仕えるに忠を持ってす」

現代でも上司と部下の関係は人としては対等であっても、「禮」と「忠」をわきまえる必要があるでしょう。

諂い

yuē:“shì(1)jūnjìnrénwéichǎn(2)。”

《论语》八佾第三-18

(1)事:仕える
(2)谄:ご機嫌を取る

素読文:

いわく;“きみつかうるにれいつくせば、ひともっへつらいとなすなり。”

解釈:

孔子曰く:“主君に支えて礼を尽くすと、人はそれをへつらいという”

世の中には、上司に対してあからさまなゴマスリをする人もいますが、きちんと礼を尽くすことは諂いとは別物です。

新月の儀式

gònggàoshuò(1)zhī(2)yángyuē:“(3)ěrài(4)yángài”。

《论语》八佾第三-17

(1)告朔:朔は新月のこと。月が変わったことを告げる儀式。
(2)饩:生贄。月が変わるごとに、羊を生贄にし祀っていた。
(3)赐:子貢の名前。
(4)爱:惜しむ。

素読文:

こう告朔こくさくようらんとほっす。いわく:“や、なんじひつじおしむ。われれいおしむ。”

解釈:

子貢は新月の式祭に羊を生贄にするのを惜しんだ。
孔子曰く:“子貢よ、お前は羊を惜しむが、私は伝統ある文化が廃れるのを惜しむ”

新月のたびに祖先、先達に礼を捧げる儀式なのでしょう。庶民はこの儀式で月が変わったことを知る。子貢は儀式のたびに羊を生贄にすることはない、と考えたのでしょう。しかし孔子は文化、伝統を重んじる人です。

中国では昔から満月・朔月に合わせて儀式があります。
カレンダーは西暦なので、我々外国人には不便ですが、中国の家庭には旧暦併記のカレンターがあるのでしょう。
今は見かけなくなりましたが、新月(満月だったかも)道端で紙のお札を燃やしているのをしばしば見かけました。