子在齐闻韶(1),三月不知肉味。曰:“不图为乐之至于斯也。”
《论语》述而篇第七-13
(1)韶:舜が作ったといわれる古典音楽。
素読文:
子、斉に在りて韶を聞く。三月肉の味を知らず。曰く、“図らざりき、楽を為ることの斯に至らんとは。”
解釈:
孔子は斉に滞在中、韶をきかれた。そして三月の間それを楽しんで、肉の味もわからないほどだった。
孔子曰く“これほどすばらしい音楽があろうとは、思いもかけなかった”
子在齐闻韶(1),三月不知肉味。曰:“不图为乐之至于斯也。”
《论语》述而篇第七-13
(1)韶:舜が作ったといわれる古典音楽。
素読文:
子、斉に在りて韶を聞く。三月肉の味を知らず。曰く、“図らざりき、楽を為ることの斯に至らんとは。”
解釈:
孔子は斉に滞在中、韶をきかれた。そして三月の間それを楽しんで、肉の味もわからないほどだった。
孔子曰く“これほどすばらしい音楽があろうとは、思いもかけなかった”
子之所慎:齐(1)、战、疾 。
《论语》述而篇第七-12
(1)齐:物忌み、祭祀の前に斎戒沐浴し、心を整えること。
素読文:
子の慎む所は、斉・戦・疾。
解釈:
孔子が慎んで対処したのは、斎戒と、戦争と、病気の場合であった。
幸にして、現代の日本ではあまり気にしなくてよさそうですが、隣国では『战』『疾』に不安がありそうです。
子曰:“富而可求也,虽执鞭之士(1),吾亦为之。如不可求,从吾所好 。”
《论语》述而篇第七-11
(1)执鞭之士:行列の先頭の露払い役、卑しい仕事の例え
素読文:
子曰く、富にして求む可くんば、執鞭の士と雖ども、吾亦た之を為さん。如し求む可らずんば、吾が好む所に従がわん。
解釈:
子曰く:“もし富が、人として進んで求むべきものならば、私はそれを得るために、喜んで行列の露払いでもやろう。だが、それが求むべきものでないなら、私は自分の好む道に従って人生を過ごしたい”
仕事に富貧貴賎はない、与えられた仕事ならば、露払いでもやる。しかしそれが求める仕事でなければ、自分で好む仕事をしたい。孔子は弟子と共に、仕官すべき君主を探す旅に出ますが、結局孔子の眼鏡に叶う君主は見つけられなかったということでしょう。
子谓颜渊曰:用之则行 ,舍之则藏 ,惟我与尔有是夫。子路曰:子行三军(1)则谁与?
子曰:暴虎(2)冯河(3),死而无悔者,吾不与也。
必也临事而惧,好谋而成者也。
《论语》述而-第七-10
(1)三軍:大国の持つ37,500人の軍隊
(2)暴虎:暴れる虎と素手で戦うこと
(3)冯河:大河を歩いて渡る。(2)(3)共に命知らずの行動
素読文:
子、顔淵に謂いて曰く、之を用うれば則ち行ない、之を舎つれば則ち蔵る。唯だ我と爾とのみ是れ有るかな。子路曰く、子、三軍を行らば、則ち誰と与にせん。子曰く、暴虎馮河し、死して悔い無き者は、吾与にせざるなり。必ずや事に臨みて懼れ、謀を好
解釈:
孔子は顔淵に“任官することがあれば仕事をするが、声がかからねば静かに過ごすだけだ。それができるのは君と私くらいのものだろう”
横で聞いていた子路が“師が大軍を任されることになったら誰と戦いますか”と聞いた。
孔子答えて曰く「暴れる虎と素手で戦ったり、大河を歩いて渡ろうとする様な蛮勇・無謀な者とは一緒に戦えない」
勇猛果敢であることは必要でしょうが、蛮勇無策では兵卒をまとめ勝利に導くことはできないでしょう。
残念ながら、孔子も顔淵も大軍を率いる機会には恵まれませんでした。
子zǐ 曰yuē :“自zì (1)行xíng 束shù 修xiū (2)以yǐ 上shàng ,吾wú 未wèi 尝cháng 无wú 诲huì (3)焉yān 。”《论语》述而篇第七-7
(1)自〜以上:〜したからには
(2)束修:干し肉を束ねた物。入門するときの謝礼。
(3)诲:教える
素読文:
子
解釈:
子曰く“謝礼を以って弟子入りしてきた者に、教えないということはあり得ない”
当たり前のように思えますが、孔子が「教える」と言っているレベルが当たり障りのない講義とはレベルが違うのでしょう。
子
zǐ 曰yuē :甚shèn 矣yǐ 吾wú 衰shuāi 也yě !久jiǔ 矣yǐ 吾wú 不bú 复fù 梦mèng 见jiàn 周zhōu 公gōng 。
《论语》述而篇第七-5
素読文:
子
解釈:
孔子曰く:“私もずいぶん年老いたたものだ。最近は一向に周公の夢を見なくなってしまった”
孔子は若い頃はきっと、尊敬する周公の夢をしばしば見ていたのでしょう。最近は周公の夢を見なくなったのを、年齢のせいと考えているようですが、孔子が成長し周公に近づいたから夢に見なくなったのだろうと思います。
子
zǐ 之zhī 燕yàn 居jū (1),申shēn 申shēn 如rú (2)也yě ,夭yāo 夭yāo 如rú (3)也yě 。
《论语》述而篇第七-4
(1)燕居:家でくつろぐこと
(2)申申如:のびのびとくつろぐ様子
(3)夭夭如:楽しそうな様子
素読文:
子
解釈:
孔子は家にいるときは、いつものびのびとくつろぎ、楽しそうにしておられた。
凡人の印象では、孔子は家にいる時も考え事をしており、どちらかといえば沈思黙考の表情だったように思っていました。
《论语》述而七-3
素読文:
子
解釈:
孔子曰く「修徳の未熟なこと、学の不徹底なこと、正義と知ってただちに実践にうつり得ないこと、不善の行いを改めることができないこと。これらがいつも私の気がかりとなっていることだ」
子
zǐ 曰yuē :默mò 而ér 识zhì 之zhī ,学xué 而ér 不bú 厌yàn ,诲huì 人rén 不bú 倦juàn ,何hé 有yǒu 于yú 我wǒ 哉zāi 。《论语》述而第七-2
素読文:
子
解釈:
子曰く:“黙って憶え、飽くことなく学び、そして倦むことなく人に教える。私にできるのはそれだけだ。”
「ただそれだけだ」と言っていますが、凡人にはそれができません。
子
zǐ 曰yuē :“我wǒ 非fēi 生shēng 而ér 知zhī (1)之zhī 者zhě ,好hào 古gǔ (2),敏mǐn (3)以yǐ 求qiú 之zhī 者zhě 也yě 。”《论语》述而第七-20
(1)生而知:生まれながらにして知る。
(2)好古:古代の文化を好む。
(3)敏:汲々として
素読文:
子
解釈:
孔子曰く:“私は生まれながらにして何もかも知っている者ではない。古代からの教えを好み、その探求を汲々と続けているだけだ。”
孔子は「老彭に比す」でも自分は古代の教えを伝えているだけだと言っています。