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管仲

yuē:“guǎnzhòng(1)zhī(2)xiǎozāi。”
huòyuē:“guǎnzhòngjiǎn(3)。”
yuē:“guǎnshìyǒusānguī(4)guānshì(5)shè(6)yānjiǎnránguǎnzhòngzhī?”
yuē:“bāngjūnshùménguǎnshìshùménbāngjūnwéiliǎngjūnzhīhǎoyǒufǎndiàn(7)guǎnshìyǒufǎndiànguǎnshìérzhīshúzhī。”

《论语》八佾第三-22

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(1)管仲:せいの宰相。姓は管。あざなは仲
(2)器:人の器の大きさ
(3)俭:倹約
(4)三归:三つの邸宅
(5)官事:家臣の仕事
(6)不摄:兼務をしない
(7)反坫:祝宴で盃を置く台

素読文:

いわく、かんちゅううつわしょうなるかな。あるひといわく、かんちゅうけんなるか。いわく、かんさんり。かんことかねず。いずくんぞけんなるをん。しからばすなわかんちゅうれいれるか。いわく、邦君ほうくんじゅしてもんふさぐ。かんじゅしてもんふさぐ。邦君ほうくんりょうくんよしみをすに、反坫はんてんあり。かん反坫はんてんり。かんにしてれいらば、たれれいらざらん。

解釈:

孔子曰く:“管仲は人物が小さい”
ある人が訪ねた“それは管仲はつましいという意味ですか?”
孔子曰く:“つましいとは言えまい。三帰台さんきだいというぜいたくな高台を作り、また、家臣をたくさん雇い、それぞれに兼任をさせなかった”
“では管仲は礼を心得て、例の様式に従ったのでしょうか?”
“そうとは言えまい。門内に塀を立てて目かくしにするのは諸侯の邸宅のきまりだが、管仲も大夫の身分でそれを立てた。また、酒宴に反坫はんてんを用いるのは諸侯同士の親睦の場合だが、管仲もまたそれをつかった。それで礼を心得ているといえるなら、誰でも礼を心得ているだろう”

孔子の管仲評価はかなり低かったようです。

哀公問う

āigōng(1)wènshèzǎi(2)zǎiduìyuēxiàhòushì(3)sōngyīnrén(4)bǎizhōurén(5)yuē使shǐmínzhànwénzhīyuēchéngshì(6)shuōsuìshì(7)jiànwǎng(8)jiù

《论语》八佾第三-21

(1)哀公:魯の国の君主
(2)宰我:姓は宰、名は予、あざなは子我
(3)夏后氏:夏王朝
(4)殷人:殷王朝
(5)周人:周王朝
(6)成事:出来てしまったこと
(7)遂事:済んでしまったこと
(8)既往:過ぎ去ったこと

素読文:

哀公あいこうしゃさいう。さいこたえていわく、こうまつもってし、殷人いんひとはくもってし、しゅうひとくりもってす。いわく、たみをして戦栗せんりつせしむ。これきていわく、せいかず、すいいさめず、おうとがめず。

解釈:

哀公あいこうさいに社の神木についてたずねた。
宰我答えて曰く「夏の時代には松を植えた。殷の時代には柏を植えた。周の時代からは、栗を植えることになったが、それは人民を戦慄せんりつさせるという意味です」
孔子はこれを聞いて曰く「できてしまったことは、いっても仕方がない。やってしまったことは、いさめても仕方がない。過ぎてしまったことは、とがめても仕方がない」

あれこれと、罰を与えることで人々を治めることはできないと孔子は言いたかったのでしょうか。

主従関係は礼と忠

dìnggōngwènjūn使臣shǐchénchénshìjūnzhīkǒngduìyuējūn使shǐchénchénshìjūnzhōng

《论语》八佾篇第三-19

素読文:

定公ていこうう、きみしん使つかい、しんきみつかうるには、これ如何いかんせん。こうこたえいわく、きみしん使つかうにれいもってし、しんきみつかうるにちゅうもってす。

解釈:

定公は問う「君主は家臣を使い、家臣は君主に仕える、この関係をどうしたら良いか」
孔子答えて曰く「君主は臣をつかうに禮を持ってし、臣は君主に仕えるに忠を持ってす」

現代でも上司と部下の関係は人としては対等であっても、「禮」と「忠」をわきまえる必要があるでしょう。

諂い

yuē:“shì(1)jūnjìnrénwéichǎn(2)。”

《论语》八佾第三-18

(1)事:仕える
(2)谄:ご機嫌を取る

素読文:

いわく;“きみつかうるにれいつくせば、ひともっへつらいとなすなり。”

解釈:

孔子曰く:“主君に支えて礼を尽くすと、人はそれをへつらいという”

世の中には、上司に対してあからさまなゴマスリをする人もいますが、きちんと礼を尽くすことは諂いとは別物です。

弓術

yuē:“shè(1)zhǔ(2)wéitóng(3)zhīdào。”

《论语》八佾第三-16

(1)射:弓の競技。ここでは的を射抜く実践的な競技ではなく、儀礼的な儀式。
(2)皮:的の中央の皮。
(3)科:等級

素読文:
いわく、しゃかわしゅとせざるは、ちからしなおなじくせざるがためなり。いにしえみちなり。

解釈:
孔子曰く、射の儀式の目的は的に当てることであり、的皮を射抜くことではない。人にはそれぞれの力量があるからだ。これが昔からの作法だ。

実践的な弓術であれば、鎧をも貫く力が必要でしょうが、ここで孔子が言っているのは儀式としての弓術です。

周は郁郁として文なるかな

yuē:“zhōujiànèrdài(1)(2)wén(3)zāicóngzhōu。”

《论语》八佾-第三-14

(1)二代:夏・殷の二王朝
(2)郁郁乎:文化が栄えている様子
(3)文:文化が美しく盛んなこと

素読文:
いわく:“しゅうだいかんがみて、郁郁いくいくとしてぶんなるかな。われしゅうしたがわん。”

解釈:
子曰く“周の王朝は、いん二代の王朝の諸制度を参考にして、文化を繁栄させた。私は周の文化に従いたい”

孔子は周公旦の治世を理想と考えていたようです。

禘の説を問う

huò(1)wèn(2)zhīshuōyuē:“zhīzhīshuō(3)zhězhītiānxiàshì(4)zhū。”zhǐzhǎng(5)

《论语》八佾第三-11

(1)或:ある人
(2):神と祖先を祀る儀式
(3)说:意味
(4)示:見せる
(5)指其掌:掌を指差す。容易である

素読文:
あるひとていせつう。いわく:“らざるなり。せつものてんけるや、これここしめすがごときか、と。”たなごころせり。

解釈:
ある人が禘の祭祀のことを尋ねた。孔子曰く「私は知らない。禘の祭祀のことを理解する者が治める国が安泰であることは、手のひらを指差すように明らかであろう」

前章で孔子は魯の国の禘の祭祀は見るに値しないと言っていますが、禘の祭祀の本当の意義を理解している者が世をとうちすれ

古代の礼

yuē:“xià(1)néngyánzhī(2)zhēng(3)yīn(4)néngyánzhīsòng(5)zhēngwénxiànnéngzhēngzhī。”

《论语》八佾篇第三-9

(1)夏:中国最古の王朝。
(2)杞:周の武王が夏の子孫を封じた国。
(3)徵:証明する。「征」の字を使う例もある。
(4)殷:中国古代の王朝。
(5)宋:春秋戦国時代の国。

素読文:
いわく、れいわれよくこれえども、ちょうするにらざるなり。いんれいわれこれえども、そうちょうするにらざるなり。文献ぶんけんらざるがゆえなり。らばすなわわれこれちょうせん。

解釈:
孔子曰く:“私はよく夏の礼制について話すことがあるが、夏の後継国・杞に十分な文献が残っていない。私はしばしば殷の礼制について話すことがあるが、殷の後継国・宋に十分な文献が残っていない。
それらがあれば、私が言っていることが正しいと証明されるはずだ。

文献が残っていないことを、当時の礼はこうであっただろうと孔子は推測したのでしょうか?

子夏と詩を語る

xiàwènyuē:“qiǎoxiào(1)qiàn(2)měi(3)pàn(4)(5)wéixuàn(6)wèi(7)?”
yuē:“huìshìhòu(8)。”
yuē:“hòu(9)
yuē:“zhěshāng(10)shǐyánshī(11)。”

《论语》八佾第三-8

(1)巧笑:愛らしく笑う
(2)倩兮:口もとが可愛い
(3)美目:美しい目元
(4)盼:黒目と白目がくっきりしている
(5)素:胡粉(白色顔料)で下地を塗る
(6)绚:綾模様をつける
(7)何谓也:どういう意味でしょう
(8)绘事后素:絵を描くときは白を後にする
(9)礼后乎?:礼は最後の仕上げなりや
(10)起予者商也:私の言わんとするところをいうのは商(子夏なり)
(11)始可与言诗已矣:君となら詩を語り合える

素読文:

子夏しかいていわく、こうしょうせんたり、もくはんたり、もっあやすとは、なんいいぞや。いわく、ことのちにす。いわく、れいのちなるか。いわく、われおこものしょうなり。はじめてともうべきのみ。

解釈:

子夏が孔子に問う“愛らしく笑い、口元が可愛い、目元が美しく、瞳がぱっちり、化粧をすれば愛らしいとはどんな意味でしょう。”
孔子曰く“絵を描くときは、最後の仕上げに胡粉をかける、というようなことだ”
子夏曰く“礼は人生最後の仕上げという意味でしょうか?”
孔子曰く“商(子夏)よ、君には私も教えられる。それでこそ共に詩を語り合えるというものだ”

流行歌のような詩を子夏はうわべだけでなく、人生教訓と解釈。孔子が感心して、共に詩を語り合える、と褒めた。褒められて子夏はどう答えたかはは書かれていませんが、師匠から褒められて嬉しかったでしょうね。

礼の本質

línfàngwènzhīběnyuē:“zāiwènshēnìngjiǎnsāng(1)nìng(2)。”

《论语》八佾第三-4

(1)易:儀式が整う。形式が整う。
(2):戚:悲しみ悼むこと。

素読文:
林放りんぽうれいもとう。いわく、だいなるかないや。れいおごらんよりはむしけんせよ。そうおさめんよりはむしいため。

解釈:

林放が礼の基本を訪ねた。
孔子曰く「良い質問だ。礼は贅を尽くすより、むしろ倹約した方が良い。葬儀は手落がないことより、悲しみ悼む方が良い」

儀式は贅を尽くし形式にこだわるより、質素でも心を込めてせよ、という意味と理解しました。