子曰:“居上(1)不宽,为礼不敬,临丧不哀,吾何以观之哉(2)。”
《论语》八佾第三-26
(1)居上:人の上に立つ
(2)何以观之哉:何の見所もない
素読文:
子曰く:“上に居て寛ならず、礼を為して敬せず、喪に臨んで哀しまずんば、吾何を以てか之を観んや。”
解釈:
孔子曰く“人の上に立って寛容でなく、礼を行なうのに敬意なく、葬儀にて悲しい気持になれない人間は、見込みがない。”
人の上に立つものほど寛容、敬意、哀悼の情が必要だということと理解しました。
子曰:“居上(1)不宽,为礼不敬,临丧不哀,吾何以观之哉(2)。”
《论语》八佾第三-26
(1)居上:人の上に立つ
(2)何以观之哉:何の見所もない
素読文:
子曰く:“上に居て寛ならず、礼を為して敬せず、喪に臨んで哀しまずんば、吾何を以てか之を観んや。”
解釈:
孔子曰く“人の上に立って寛容でなく、礼を行なうのに敬意なく、葬儀にて悲しい気持になれない人間は、見込みがない。”
人の上に立つものほど寛容、敬意、哀悼の情が必要だということと理解しました。
《论语》八佾篇第三-25
(1)韶:舜が作った楽曲。
(2)美:外面的な美
(3)善:道徳的な善
(4)武:周の武王が作った楽曲
素読文:
子、韶を謂う、美を尽せり、又善を尽せり。武を謂う、美を尽せり、未だ善を尽さざるなり。
解釈:
孔子は舜が作った楽曲・韶を「美しく、善がある」と評した。
武王が作った楽曲を「形式的には美しいが善がない」と評した。
舜は堯から禅譲によって君主となった。一方武王は殷の紂王を武力で滅ぼして帝位についた。この差が「美」と「善」の評価になったようです。
子语鲁大师(1)乐曰:“乐其可知也(2)。始作(3),翕如(4)也;纵(5)之,纯如(6)也,皦如(7)也,绎如(8)也,以成(9)。”
《论语》八佾篇第三-23
(1)大师:楽団長
(2)可知也:知ることができる
(3)始作:演奏を始めるとき
(4)翕如:多くの楽器が一斉に鳴る様子
(5)纵如:放つ
(6)纯如:調和のとれたさま
(7)皦如:明らかなさま
(8)绎如:続いて絶えないさま
(9)成:完成する
素読文:
子、魯の大師に楽を語りて曰く:“楽は其れ知るべきなり。始め作すに翕如たり。之を従ちて純如たり。皦如たり。繹如たり。以て成る。”
解釈:
孔子が魯の楽隊長に音楽について語った。
音楽には一定の決まりがあり、難しいことではない。
演奏の開始時には多くの楽器が一斉に鳴るようにする。
そして楽器の音色が調和されつつも、一つ一つの音色を際立たせつつ演奏が途絶えないようにする。このようにして指揮者、演奏者、聴衆が一体となることで、演奏が完結する。
《论语》八佾第三-22
(1)管仲:斉の宰相。姓は管。字は仲
(2)器:人の器の大きさ
(3)俭:倹約
(4)三归:三つの邸宅
(5)官事:家臣の仕事
(6)不摄:兼務をしない
(7)反坫:祝宴で盃を置く台
素読文:
子曰く、管仲の器は小なるかな。或ひと曰く、管仲は倹なるか。曰く、管氏に三帰有り。官の事は摂ず。焉んぞ倹なるを得ん。然らば則ち管仲は礼を知れるか。曰く、邦君は樹して門を塞ぐ。管氏も亦た樹して門を塞ぐ。邦君は両君の好みを為すに、反坫有あり。管氏も亦た反坫有り。管氏にして礼を知らば、孰か礼を知らざらん。
解釈:
孔子曰く:“管仲は人物が小さい”
ある人が訪ねた“それは管仲はつましいという意味ですか?”
孔子曰く:“つましいとは言えまい。三帰台というぜいたくな高台を作り、また、家臣をたくさん雇い、それぞれに兼任をさせなかった”
“では管仲は礼を心得て、例の様式に従ったのでしょうか?”
“そうとは言えまい。門内に塀を立てて目かくしにするのは諸侯の邸宅のきまりだが、管仲も大夫の身分でそれを立てた。また、酒宴に反坫を用いるのは諸侯同士の親睦の場合だが、管仲もまたそれをつかった。それで礼を心得ているといえるなら、誰でも礼を心得ているだろう”
孔子の管仲評価はかなり低かったようです。
哀公(1)问社于宰我(2),宰我对曰:夏后氏(3)以松,殷人(4)以柏,周人(5)以栗。曰:使民战栗。子闻之,曰:成事(6)不说,遂事(7)不谏,既往(8)不咎。
《论语》八佾第三-21
(1)哀公:魯の国の君主
(2)宰我:姓は宰、名は予、字は子我
(3)夏后氏:夏王朝
(4)殷人:殷王朝
(5)周人:周王朝
(6)成事:出来てしまったこと
(7)遂事:済んでしまったこと
(8)既往:過ぎ去ったこと
素読文:
哀公、社を宰我に問う。宰我、対えて曰く、夏后氏は松を以てし、殷人は柏を以てし、周人は栗を以てす。曰く、民をして戦栗せしむ。子、之を聞きて曰く、成事は説かず、遂事は諫めず、既往は咎めず。
解釈:
哀公が宰我に社の神木についてたずねた。
宰我答えて曰く「夏の時代には松を植えた。殷の時代には柏を植えた。周の時代からは、栗を植えることになったが、それは人民を戦慄せんりつさせるという意味です」
孔子はこれを聞いて曰く「できてしまったことは、いっても仕方がない。やってしまったことは、いさめても仕方がない。過ぎてしまったことは、とがめても仕方がない」
あれこれと、罰を与えることで人々を治めることはできないと孔子は言いたかったのでしょうか。
定公问:君使臣,臣事君,如之何?孔子对曰:君使臣以礼,臣事君以忠 。
《论语》八佾篇第三-19
素読文:
定公問う、君、臣を使い、臣、君に事うるには、之を如何せん。孔子対て曰く、君、臣を使うに礼を以てし、臣、君に事うるに忠を以てす。
解釈:
定公は問う「君主は家臣を使い、家臣は君主に仕える、この関係をどうしたら良いか」
孔子答えて曰く「君主は臣をつかうに禮を持ってし、臣は君主に仕えるに忠を持ってす」
現代でも上司と部下の関係は人としては対等であっても、「禮」と「忠」をわきまえる必要があるでしょう。
子曰:“事(1)君尽礼,人以为谄(2)也。”
《论语》八佾第三-18
(1)事:仕える
(2)谄:ご機嫌を取る
素読文:
子曰く;“君に事うるに礼を尽せば、人以て諂いと為なり。”
解釈:
孔子曰く:“主君に支えて礼を尽くすと、人はそれを諂いという”
世の中には、上司に対してあからさまなゴマスリをする人もいますが、きちんと礼を尽くすことは諂いとは別物です。
《论语》八佾第三-16
(1)射:弓の競技。ここでは的を射抜く実践的な競技ではなく、儀礼的な儀式。
(2)皮:的の中央の皮。
(3)科:等級
素読文:
子曰く、射の皮を主とせざるは、力の科を同くせざるが為なり。古の道なり。
解釈:
孔子曰く、射の儀式の目的は的に当てることであり、的皮を射抜くことではない。人にはそれぞれの力量があるからだ。これが昔からの作法だ。
実践的な弓術であれば、鎧をも貫く力が必要でしょうが、ここで孔子が言っているのは儀式としての弓術です。
《论语》八佾-第三-14
(1)二代:夏・殷の二王朝
(2)郁郁乎:文化が栄えている様子
(3)文:文化が美しく盛んなこと
素読文:
子曰く:“周は二代に監みて、郁郁として文なるかな。吾は周に従わん。”
解釈:
子曰く“周の王朝は、夏殷二代の王朝の諸制度を参考にして、文化を繁栄させた。私は周の文化に従いたい”
孔子は周公旦の治世を理想と考えていたようです。
《论语》八佾第三-11
(1)或:ある人
(2):神と祖先を祀る儀式
(3)说:意味
(4)示:見せる
(5)指其掌:掌を指差す。容易である
素読文:
或禘の説を問う。子曰く:“知らざるなり。其の説を知る者の天下に於けるや、其れ諸を斯に示すがごときか、と。”其の掌を指せり。
解釈:
ある人が禘の祭祀のことを尋ねた。孔子曰く「私は知らない。禘の祭祀のことを理解する者が治める国が安泰であることは、手のひらを指差すように明らかであろう」
前章で孔子は魯の国の禘の祭祀は見るに値しないと言っていますが、禘の祭祀の本当の意義を理解している者が世をとうちすれ