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帰らんか、帰らんか

zàichényuē:“guīguīdǎngzhīxiǎo(1)kuángjiǎn(2)fěirán(3)chéngzhāngzhīsuǒcái(4)zhī。”

《论语》公冶长第五-22

(1)吾党之小子:故郷(魯国)の弟子たち
(2)狂简:野心的だが行動は単純。
(3)斐然:文学的な表現
(4)裁:裁断して衣服にする。

素読文:
ちんりていわく:“かえらんか、かえらんか。とうしょうきょうかんにして、ぜんとしてしょうす。これさいする所以ゆえんらず。”

解釈:
孔子が諸国を旅し陳にいる時、魯国に帰ることを決断する。孔子曰く:“国に残してきた弟子たちを指導しよう。彼らは志は大きく、知識学問を語ることができる。しかし生地は作れてもまだ衣服にすることができていない。帰って彼らを指導しよう。”

孔子は諸国を旅しその国々の政治に携わろうと考えていたのでしょう。しかし諸侯の心情の浅ましさを知り、彼らを助けるより魯国に残してきた弟子たちの指導に専念しようと決断しました。

実学の論語

gòngyuēzhīwénzhāng(1)érwénzhīyánxìng(2)tiāndào(3)érwén

《论语》公冶长第五-13

(1)文章:詩、書、礼、楽などの孔子の教え。
(2)性:人間性。
(3)天道:天命。天の定め、宇宙の法則。

素読文:
こういわく:“ふう文章ぶんしょうは、くべきなり。ふうせい天道てんどうとをうは、くべからざるなり。”

解釈:
子貢曰く「孔子の詩、書、礼、楽など日常の実践に関する教えは聞くことができるが、人間の本質や宇宙の原理など原理的な教えはなかなか聞くことができない」

孔子は、抽象的、哲学的なことを説くのではなく、あくまで実践に立脚した教えだったということでしょうか。

下村湖人は「論語物語」の中で「孔子は人生観、世界観を滅多に口にされることはない、孔子の深さは無限だから、我々がそれを聞いても理解できないだろう。」と子貢に言わせています。

安岡正篤氏は「論語の活学」という本を書かれています。

孔子の教えは哲学的な思索ではなく、実践のための手引きである、とこの節で言っているのだと思います。

学びと実践

yǒuwénwèizhīnéngxíngwéikǒngyòuwén

《论语》公冶长第五-14

素読文:
子路しろくことて、いまこれおこなうことあたわずんば、くことるをおそる。

解釈:
子路は名言、善言を聞いてもそれを行動に移さねば、新たな名言、善言を聞くことを恐れた。

下村湖人の「論語物語」ではこの節は孔子の息子・伯魚と若い弟子・陳亢に対し「元来教えを聞きたがる心は、己の軽薄さを示すだけだ」と教える場面の言葉として書いています。

一方で孔子は自ら問いを立てぬものは教えようがない、とも言っています。

書籍やネットからの情報を大量にインプットして、頭でっかちとなり皆が「評論家」になってしまい、弁は立つが行動しない人ばかりになっては世の中は変わらない。孔子が若い弟子に説いた言葉は、私たち現代人にも警句となっています。

漆雕开

使shǐdiāokāi(1)shìduìyuēzhīwèinéngxìnyuè

《论语》公冶长第五-6

(1)漆雕开:孔子の弟子。姓は漆雕、名は开。あざなは子開。

素読文:
漆彫開しつちょうかいをしてつかえしむ。こたえていわく、われこれいましんずることあたわず、よろこぶ。

解釈:
孔子が漆彫開に仕官を勧めた。漆彫開答えて曰く「私はまだ任を全うする自信がありません」
孔子はそれを聞いて喜んだ。

早く仕官して禄を得たい、と考えるのは人情でしょう。しかし漆彫開は禄を得ることより、職責を果たすことを重視した。その姿勢を孔子は喜んだのでしょう。

論語で漆彫開が出てくるのはこの章だけです。
孔子を喜ばせる答えをしていますが、顔淵、子路、子貢などの常連組と比べる
と影が薄いようです。

老者を安んじ、朋友を信じ、若者を懐けん

yányuānshì(1)yuē:“yáněrzhì。”
yuē:“yuànchēqīngqiú(2)péngyǒugòngzhīérhàn。”
yányuānyuē:“yuànshànshīláo。”
yuē:“yuànwénzhīzhì。”
yuē:“lǎozhěānzhīpéngyǒuxìnzhīshàozhě怀huáizhī。”

《论语》公冶长第五-26

(1)侍:傍に立ってかしずく
(2)衣轻裘:上着や軽い毛皮の衣服

素読文:

顔淵がんえん季路きろす。いわく:“なんおのおのなんじこころざしわざる。”
子路しろいわく:“ねがわくはしゃ軽裘けいきゅうを、朋友ほうゆうともにし、これやぶりてうらからん。”
顔淵がんえんいわく:“ねがわくはぜんほこることく、ろうほどこすことからん。”
子路しろいわく:“ねがわくはこころざしかん。”
いわく:“老者ろうしゃこれやすんじ、朋友ほうゆうこれしんじ、少者しょうしゃこれなつけん。”

解釈:

孔子が季路(子路)と顔淵に向かって志を問うた。
季路は仲間と物を分け合い、それを破損しても怒らない様にしたい、と答える。
顔淵は良い点を誇ることなく、労を衒うことなく自分がなすべきことをやりたい、と答える。
季路に問われた孔子は、老人の心を安らかにし、朋友とは信を持って交わり、年少者には親しまれたい、とだけ答えた。

下村湖人は「論語物語」の中で次の様に解説しています。
孔子の言葉は季路にはあまり響かなかった様だが、顔淵は自分の考えに自己中心的な面が残っているのに対し、孔子の考えが他者中心であることを知り、自分の足りなさを恥じた。

君子は恭敬惠義

wèichǎn(1)yǒujūnzhīdàoyān:“xínggōngshìshàngjìngyǎngmínhuì使shǐmín” 。

《论语》公冶长第五-16

(1)子产:姓は公孫、名は僑、字名を子産。鄭国の宰相。

素読文:
さんう。くんみちり。“おのれおこなうやきょうかみつかうるやけいたみやしなうやけいたみ使つかうや。”

解釈:
子は子産を称して曰く、子産には君子が守るべき四つの道があった。それは“己の行いに対し謙虚である。上に使えて敬親である。民に対して慈恵深い。民を使役するに道理にかなっている。”の四つである。

孔子は子産が「恭敬惠義」の大夫であったと称し、君子たるもの「恭敬惠義」であらねばならないと説いています。残念ながら現代日本には「恭敬惠義」の為政者が少ない(皆無?)ように思います。

君子は君子によって育つ

wèi“子jiàn(1)jūnzāiruòrén(2)jūnzhěyān(3)。”

《论语》公冶长第五-3

(1)子贱:せん。孔子の弟子。姓はふく、名はせい。魯の人。
(2)若人:かくのごとき人。
(3)斯焉取斯:一番目の『斯』は子賤、二番目の『斯』は君子の徳を指す。

素読文:
せんう、くんなるかな、かくのごときひとくんしゃくんば、これいずくにかこれらん。

解釈:
孔子は子賤を評して言われた「このような人物こそ君子と呼ぶべきだ。もし魯の国に君子が多くいなければ、子賤も君子にはなれなかっただろう」

君子は君子によって育てられる、と言うことでしょう。

孟武伯問う

mèng(1)wèn:“ rén?” yuē:“zhī”。yòuwèn。 yuē:“yóu(2)qiānshèngzhīguó(3)使shǐzhì(4)zhīrén”。
qiú(5)?” yuē:“qiúqiānshìzhī(6)bǎishèngzhījiā(7)使shǐwéizhīzǎi(8)zhīrén。”
chì(9)?” yuē:“chìshùdài(10)cháo(11)使shǐbīn(12)yánzhīrén” 。

《论语》公冶长第五-8

(1)孟武伯:魯の大夫、もう懿子いしの子。
(2)由:孔子の弟子。姓は仲、名は由。あざなは子路。
(3)千乘之国:兵車を千台持っている規模の諸侯の国。
(4)赋:兵
(5)求:孔子の弟子。冉有ぜんゆう、名は求。字は子有。
(6)千室之邑:数千戸程度の町
(7)百乘之家:兵車を100台くらい持っている卿大夫の家
(8)宰:卿大夫の家の長官
(9)赤:孔子の弟子。姓は公西こうせい、名はせき、字は子華。
(10)束带:礼服に締める帯。朝廷で礼服を着用すること。
(11)朝:朝廷
(12)宾客:外国の賓客

素読文:
もうはくう:「子路しろじんなるか。」わく:「らざるなり。」またう。子曰わく:「ゆうや、せんじょうくにそのおさめしむべきなり。其仁を知らざるなり。」
きゅう何如いかん。」子曰わく:「求や、千室せんしつゆう百乗ひゃくじょうの家、これさいたらしむべきなり。其仁を知らざるなり。」
せきや何如。」子曰わく:「赤や、束帯そくたいしてちょうに立ち、賓客ひんかくと言わしむべきなり。其仁を知らざるなり。」

解釈:
孟武伯が問う「子路は仁者でしょうか?」孔子曰く「子路が仁者かどうかはわからない」再び問う。孔子曰く「子路は、千乗の国の軍を治めることはできよう。しかし仁者かどうかはわからない。」
「では子有は仁者でしょうか?」「子有は千戸の邑(町)の代官や百乗の家の宰相を務めることができよう。しかし仁者かどうかはわからない。」
「では子華は仁者でしょうか?」「子華は式服を着け、宮廷で外国の賓客と話し合うことはできよう。しかし仁者かどうかはわからない。」

論語の中で孔子はしばしば人物評を口にしています。この節では子路、子有、子華の3人の弟子が仁者であるかどうかを問われ、答えています。3人の弟子の順位をつけるとすれば、子路:千乗の国の総裁。子有:百乗の町の総裁。子華:朝廷の官吏。ということでしょうか?しかし3人とも仁者であるかどうかはわからない、と答えています。当然3人とも孔子の高弟なので仁者であると考えても良いでしょう。

人には仕事の向き不向きがありそれぞれに能力を発揮する職位がある。しかし仁者かどうかを決定するのはその人の職位によるものではない。孔子はこういうことを孟武伯に伝えたかったのではないでしょうか?

焉んぞ佞を用いん?

huòyuē:“yōng(1)rénérnìng(2)。”yuē:“yānyòngnìngrénkǒu(3)zēngrénzhīrényānyòngnìng?”

《论语》 公冶长第五-5

(1)雍:孔子の弟子。冉雍。字名は仲弓。
(2)佞:口先がうまいこと。
(3)口给:弁舌が立つ。口数が多い。

素読文:
る人曰く、ようや仁なれどねいならず。子曰く、いずくんぞ侫を用いん?人にあたるにこうきゅうを以ってすれば、しばしば人に憎まる。其の仁を知らず。焉んぞ侫を用いん?

解釈:
ある人曰く、雍は仁者であるが弁が立たない。子曰く、どうして弁がたつのが良いのか?弁がたてば人を口数で言い負かし恨まれる。雍が仁者であるかどうかはわからないが、口数が少ないのは悪いことではない。

以前ご紹介した『巧言令色仁鮮なし』では、孔子は口数の多いものは仁の徳が少ない、と言っています。

一を聞いて十を知る

子谓子贡曰:“女与也孰愈?”对曰:“赐也何敢望回?回也问一以知十,赐也问一知二。”子曰:“弗如也!吾与女弗如也。”

《论语》公冶长5.9

は汝の意味。
huíは孔子の弟子・yánhuíの事。
は子贡の本名(姓・端木、名・賜)から

素読文:
子、こういてわく、なんじかいいずれかまされる。こたえて曰わく、や、何ぞあえて回を望まん。回や一を聞きてもって十を知る。賜や一を聞きて以て二を知る。子曰わく、かざるなり。われと女と如かざるなり。

解釈:
孔子が子貢しこうに尋ねました、
「お前と顔回がんかいとどちらが優れているか?」
子貢は、
「私など彼にとても及びません。彼は一を聞いて十を知る事が出来ますが、私は一を聞いて二を知るくらいがせいぜいです。」
と答え、孔子は、
「そのとおり、私もとても顔回には及ばない。私たちはとても彼には及ばないのだ。」
とおっしゃった。

「一を聞いて十を知る」聡明な人を称してこう言います。日本原来の言葉と思っていましたが、原典は論語です。

孔子一番の弟子・顔回(字名は子淵、別名顔淵)は、どちらかというと清貧にして学研の徒という感じです。顔回の求道の姿勢を孔子は高く評価していた様です。しかし孔子より先に夭折してしまう。
孔子は『顏淵死。子曰。噫。天喪予。天喪予。』(先進11.8)と嘆いています。

対する子貢は、弁が立ち高い職に就いています。
この孔子との問答でも、顔回は一を聞いて十を知ると讃えながら「自分は一を聞いて二を知ることができる」としっかりアピールしています。