子曰:“智者乐水、仁者乐山;智者动,仁者静;智者乐,仁者寿。
《论语》雍也篇第六-21
素読文:
子曰く、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静なり。知者は楽しみ、仁者は寿し。
解釈:
子曰く:“知者は水に歓びを見出し、仁者は山に歓びを見出す。知者は活動的であり、仁者は静寂である。知者は変化を楽しみ、仁者は永遠のなかに安住する”
知者は変化を追求し、仁者は変わらぬものを好む、という解釈でしょうか。
子曰:“智者乐水、仁者乐山;智者动,仁者静;智者乐,仁者寿。
《论语》雍也篇第六-21
素読文:
子曰く、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静なり。知者は楽しみ、仁者は寿し。
解釈:
子曰く:“知者は水に歓びを見出し、仁者は山に歓びを見出す。知者は活動的であり、仁者は静寂である。知者は変化を楽しみ、仁者は永遠のなかに安住する”
知者は変化を追求し、仁者は変わらぬものを好む、という解釈でしょうか。
伯牛(1)有疾(2),子问之,自牖(3)执其手,曰:“亡之命矣夫。斯人也而有斯疾也,斯人也而有斯疾也。”
《论语》雍也第六章-10
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(1)伯牛:姓は冉。名は耕。字は伯牛、冉牛とも呼ばれる。孔門十哲のひとり。魯の人。徳行にすぐれていた。
(2)疾:病。当時は不治の病であったハンセン氏病(癩病)
(3)牖:窓
素読文:
伯牛、疾有り。子、之を問う。牖より其の手を執りて、曰わく、之亡からん。命なるかな、斯の人にして斯の疾有るや、斯の人にして斯の疾有や。
解釈:
伯牛が癩を病んで危篤におちいった。孔子は伯牛を見舞われ、窓越しに伯牛の手をとり、いわれた。「惜しい人がなくなる。これも天命だろう。それにしても、この人にこの業病があろうとは。この人にこの業病があろうとは」
ハンセン氏病は当時不治の病と考えられていました。孔子は窓越しに手を握っています。ハンセン氏病は中国でも近代になるまでは伝染性の業病と考えられていました。病室まで行かなかったのはそのためでしょう。
(1)十室之邑:十戸ほどの小さな村
(2)丘:孔子の名
素読文:
子曰く:“十室の邑、必忠信丘のごとき者有らん。丘の学を好むに如ざるなり。”
解釈:
孔子曰く:“十戸ほどの村なら、自分程度の忠信の者は必ずいるだろう。しかし私ほど学を好む者はない”
学を好み忠信なき輩は、害あるのみ。忠信ありて学を好まざる者は進歩なし。ということでしょうか。
《《论语》公冶长第五-27
素読文:
子曰く:“已んぬるかな。吾未だ能く其の過を見て、内に自から訟る者を見ざるなり。”
解釈:
孔子曰く:“ひどい世の中になってしまったものだ。過ちを自ら見つけ自らを責める者を見なくなってしまった”
孔子の時代から、言い訳で問題を隠す者がいたようです。
《论语》公冶长第五-25
(1)巧言:巧みな言葉
(2)令色:上辺だけ取り繕った表情
(3)足恭:度を越した恭しさ
(4)左丘明:姓は左丘、名が明。春秋時代、魯国の史学者。
素読文:
子曰く、巧言・令色・足恭なるは、左丘明之を恥ず。丘も亦之を恥ず。怨みを匿して其の人を友とするは、左丘明之を恥ず。丘も亦た之を恥ず。
解釈:
巧言令色少なし仁と孔子は言っています。
本章では巧言令色・足恭は恥ずべき態度だと言っています。更にそういう人を友とすることも恥であると切り捨てています。
子曰:“孰谓(1)微生高(2)直(3),或乞酰(4)焉,乞诸其邻而与之。”
《论语》公冶长第五-24
(1)孰谓:誰が〜と言うか
(2)微生高:魯の人。姓は微生、名は高。正直者として有名。
(3)直:正直な人
(4)酰:酢
素読文:
子曰く:“孰か微生高を直なりと謂うや。或醯を乞う。諸を其の隣に乞いて之に与えたり。”
解釈:
孔子曰く:“誰が微生高を正直者などと言っているのか?彼は酢を借りにきた者に、隣からもらって与えたのだ。”
酢を借りにきた者に「今はないから隣で借りろ」とだけ言うより、自分で隣に借りに行ってやる方が親切だと思うのですが。
子曰:“宁武子(1),邦有道(2)则智,邦无道(3)则愚;其知可及也,其愚不可及也。”
《论语》公冶长篇第五-21
(1)宁武子:衛の大夫。姓は宁、名は兪、武は諡。暗愚な成公に仕えたが、よく助けた。
(2)邦有道:国が秩序よく治っている
(3)无有道:国の秩序が乱れている
素読文:
子曰く:“寧武子は、邦に道有れば則ち知、邦に道無ければ則ち愚なり。其の知は及ぶべきなり。其の愚は及ぶべからざるなり。
解釈:
子曰く:“寧武子は国が治まっているときは、その手腕を認められ知者と言われたが、国が乱れている時は、愚者と言われた。知者としての振る舞いは真似できるが、愚者の役割を引き受けるのは難しかろう”
愚者として振る舞うことにより君主の悪政を庇った、と言うことなのでしょうか。
本当の知者ならば、君主の悪政を諌め善政に導くべきだと考えるのは理想論に偏りすぎでしょうか。
季文子(1)三思而后行,子闻之,曰:“再,斯可矣。”
《论语》公冶长篇第五-20
(1)季文子:魯の国の家老。姓は季孫、名は行父、文子はその諡。宣公・成公・襄公の三君のときの宰相
素読文:
季文子は三たび思いて而る後に行なう。子、之を聞きて曰く、“再せば斯れ可なり。”
解釈:
季文子は何事も三たび考えてから行なった。孔子はそれを聞いていわれた。“二度考えたら十分だ”
何事も熟考の上、行動することが必要ですが、孔子は考えるのは二度までにしておけ、と言っています。三度考えている間に、状況が変わってしまうこともあるでしょう。
二度考えて答えが違っていれば、三度目を考える必要がありそうですが。
子曰:臧文仲(1)居(2)蔡(3),山节藻梲,何如其知也。
《论语》公冶长第五-18
(1)臧文仲:魯の大夫。姓は臧孫、名は辰、字は仲、文は諡。魯の大夫。孔子の出生より六十六年前に死去。当時、知者として知られた。
(2)居:蔵める
(3)蔡:占いに用いる大きな亀の甲。天子が用いるものであり、大夫の臧文仲には分不相応。
素読文:
子曰く:“臧文仲、蔡を居き、節を山にし、梲に藻す。何如ぞ其れ知ならんや。”
解釈:
孔子曰く“臧文仲は、諸侯でもないのに、国の吉凶を占う蔡をもっている。しかもそれを置く節には山の形をきざみ、梲には水草の模様を描いているが、それは天子の廟の装飾だ。世間では彼を知者だといっているが、こんな身のほど知らずが、なんで知者といえよう”
孔子は「蔡」を所有している臧文仲を分不相応と批判しています。
臧文仲は自らの領地の安寧を願って占いをしていたのでしょう。
《论语》公冶长第五-17
(1)晏平仲:姓は晏。名は嬰。字は仲。平は諡。斉の霊公・荘公・景公の三君に仕えた名宰相。
素読文:
子曰く:“晏平仲は善人と交わる。久しくして之を敬す。”
解釈:
孔子曰く:“晏平仲は交際の道をよく心得ている人だ。どんなに長く交際している人に対しても狎て敬意を失うことがない”