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美点凝視

yuējūnchéngrénzhīměichéngrénzhīèxiǎorénfǎnshì

《论语》颜渊第十二-16

素読文:
いわく:“くんひとし、ひとあくを成なさず。しょうじんこれはんす。”

解釈:
君子は人の良い点を称賛し助長するが、欠点につては触れない様にしている。しかし小人はこれと反対である。

美点凝視。部下育成の鉄則です。
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顔淵は愚ならず

yuēhuí(1)yánzhōngwéi退tuìérxǐng(2)huí

《论语》为政第二-9

(1)回:孔子の一番弟子。顔淵、顔回とも言う。
(2)发:啓発する。

素読文:
いわく:“われかいうことしゅうじつたがわざることなるがごとし。退しりぞきてわたくしかえりみれば、もっはっするにる。かいならず。”

解釈:
孔子曰く:“顔淵と一日話をしていても、異論や疑問を問うこともなく愚者の様だ。しかし顔淵の私生活を見れば、私も啓発を受けることがある。顔淵は愚者ではない。”

教えを知識とする人は、その解釈や自分の考えを披瀝したりするが、教えを実践する人は、解釈を口にしたりせず行動する。

視る、観る、診る

yuē:“shì(1)suǒguān(2)suǒyóuchá(3)suǒānrényānsōuzāirényānsōuzāi!”

《论语》为政第二-10

(1)视:注意してよく見る。
(2)观:細部までよく観察する。
(3)察:現象だけでなくその原因まで察する。

素読文:
いわく:“もちうるところところやすんずるところさっすれば、ひといずくんぞかくさんや、ひといずくんぞかくさんや。”

解釈:
孔子曰く:“人の値打ちを判断するには、その行為をよく見て、何のためにその行為を行うのか観察する、その行為の結果どの様な気持ちを持つか察すればわかるものだ。
人は取り繕っても誤魔化せるものではない。”

人の行為だけでなく、あらゆることは現象をよく視て、その細部まで観る、その結果、現象の原因を診ることができる。この視る、観る、診るの三段階活用が問題解決の基本だと思います。

竈の神

wángsūn(1)wènyuē:“mèi(2)ào(3)nìngmèizào(4)wèi?”
yuē:“ránhuòzuìtiānsuǒdǎo。”

《论语》八佾第三-13

(1)王孙贾:衛の霊公の大夫
(2)媚:機嫌を取る
(3)奥:家の最も良い場所南西の角に祀る神
(4)竈:かまど

素読文:
おうそんいていわく:“おうびんよりは、むしそうこびよ、とはなんいいぞや。”
いわく:“しからず、つみてんれば、いのところきなり。”

解釈:
王孫賈が孔子に問うた“奥の神より灶の神を大切にせよとはどういう意味でしょうか?”
孔子曰く“そうではない。天に背く様なことをすれば祈っても無駄だ。”

衛の霊公は孔子の考えを政治に取り入れようとはせず、その妃・南子の乱倫な生活に嫌気がさし、孔子は魯に残してきた弟子たちの元に帰ろうと考えていました(帰らんか、帰らんか)。そんな折に王孫賈に質問され、思わず辛辣は言葉が出てしまったのかもしれません。衛の国ではどこの神に祈っても未来はないだろうと考えていたのでしょう。

ちなみに日本でも家の中に複数の神がいると考える風習があります。竈門の神もいますが、日本人が大切に考えているのはトイレの神様ではないでしょうか?

帰らんか、帰らんか

zàichényuē:“guīguīdǎngzhīxiǎo(1)kuángjiǎn(2)fěirán(3)chéngzhāngzhīsuǒcái(4)zhī。”

《论语》公冶长第五-22

(1)吾党之小子:故郷(魯国)の弟子たち
(2)狂简:野心的だが行動は単純。
(3)斐然:文学的な表現
(4)裁:裁断して衣服にする。

素読文:
ちんりていわく:“かえらんか、かえらんか。とうしょうきょうかんにして、ぜんとしてしょうす。これさいする所以ゆえんらず。”

解釈:
孔子が諸国を旅し陳にいる時、魯国に帰ることを決断する。孔子曰く:“国に残してきた弟子たちを指導しよう。彼らは志は大きく、知識学問を語ることができる。しかし生地は作れてもまだ衣服にすることができていない。帰って彼らを指導しよう。”

孔子は諸国を旅しその国々の政治に携わろうと考えていたのでしょう。しかし諸侯の心情の浅ましさを知り、彼らを助けるより魯国に残してきた弟子たちの指導に専念しようと決断しました。

実学の論語

gòngyuēzhīwénzhāng(1)érwénzhīyánxìng(2)tiāndào(3)érwén

《论语》公冶长第五-13

(1)文章:詩、書、礼、楽などの孔子の教え。
(2)性:人間性。
(3)天道:天命。天の定め、宇宙の法則。

素読文:
こういわく:“ふう文章ぶんしょうは、くべきなり。ふうせい天道てんどうとをうは、くべからざるなり。”

解釈:
子貢曰く「孔子の詩、書、礼、楽など日常の実践に関する教えは聞くことができるが、人間の本質や宇宙の原理など原理的な教えはなかなか聞くことができない」

孔子は、抽象的、哲学的なことを説くのではなく、あくまで実践に立脚した教えだったということでしょうか。

下村湖人は「論語物語」の中で「孔子は人生観、世界観を滅多に口にされることはない、孔子の深さは無限だから、我々がそれを聞いても理解できないだろう。」と子貢に言わせています。

安岡正篤氏は「論語の活学」という本を書かれています。

孔子の教えは哲学的な思索ではなく、実践のための手引きである、とこの節で言っているのだと思います。

学びと実践

yǒuwénwèizhīnéngxíngwéikǒngyòuwén

《论语》公冶长第五-14

素読文:
子路しろくことて、いまこれおこなうことあたわずんば、くことるをおそる。

解釈:
子路は名言、善言を聞いてもそれを行動に移さねば、新たな名言、善言を聞くことを恐れた。

下村湖人の「論語物語」ではこの節は孔子の息子・伯魚と若い弟子・陳亢に対し「元来教えを聞きたがる心は、己の軽薄さを示すだけだ」と教える場面の言葉として書いています。

一方で孔子は自ら問いを立てぬものは教えようがない、とも言っています。

書籍やネットからの情報を大量にインプットして、頭でっかちとなり皆が「評論家」になってしまい、弁は立つが行動しない人ばかりになっては世の中は変わらない。孔子が若い弟子に説いた言葉は、私たち現代人にも警句となっています。

まずは自問

yuē:“yuēzhīzhīzhězhī。”

《论语》卫灵公第十五-16

素読文:
いわく:“これ如何いかんせん、これ如何いかんせんといわざるものは、われこれ如何いかんともすることきのみ。”

解釈:
子曰く:“どうしたら良いかと自ら問わない人に対して、私はどうしたらいいかわからない。”

課題、疑問を持たずに、教師や上司に質問・相談をしても、教えようがありません。

学びて厭わず、倦むことなく教える

yuēérzhìzhīxuééryànhuìrénjuànyǒuzāi

《论语》述而第七-2

素読文:
いわく、もくしてこれり、まなびていとわず、ひとおしえてまず。なにわれらんや。

解釈:
子曰く:“黙って憶え、飽くことなく学び、そして倦むことなく人に教える。私にできるのはそれだけだ。”

「ただそれだけだ」と言っていますが、凡人にはそれができません。

古聖の道を好む

yuē:“fēishēngérzhī(1)zhīzhěhào(2)mǐn(3)qiúzhīzhě。”

《论语》述而第七-20

(1)生而知:生まれながらにして知る。
(2)好古:古代の文化を好む。
(3)敏:汲々として

素読文:
いわく:“われまれながらにしてこれものあらず。いにしえこのみ、びんにしてもっこれもとめしものなり。”

解釈:
孔子曰く:“私は生まれながらにして何もかも知っている者ではない。古代からの教えを好み、その探求を汲々と続けているだけだ。”

孔子は「老彭に比す」でも自分は古代の教えを伝えているだけだと言っています。