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仁者の謙遜

yuē:“ruòshèngrén(1)gǎn(2)wéizhīyànhuìrénjuànwèiyúněr(3)!”
gōng西huáyuē:“zhèngwéinéngxué。”

《论语》述而第七-34

(1)岂:「豈」どうして〜か「あに」と訓ずる。
(2)抑:『只不过』の意味。「そもそも」と訓ずる。
(3)云尔:『这样说』の意味。「しかいう」と訓ずる。

素読文:
子曰わく、せいじんとのごときは、すなわわれあにあえてせんや。そもそもこれまなびていとわず、人をおしえまざるは、すなわ云尔しかいううべきのみ。公西こうせいわく、まさただ弟子ていしまなあたわざるなり。

解釈:
「聖とか仁とかいうほどの徳は、私には及びもつかないことだ。ただ私は、その境地をめざしてあくことなく努力している。また私の体験をとおして倦むことなく教えている。ただそれだけが私の身上だ」と孔子は簡単に言っているが、孔子のいう「ただそれだけ」が我々凡夫には到底及ばないことだ。

素読には『wéizhīyàn』を「まなびていとわず」としましたが、「していとわず」と解釈することもできます。「聖と仁をなして厭わない」と解釈した方が理解しやすいでしょう。

万人から聖人、仁者と尊敬される孔子が謙遜して「われあにあえてせんや。」と言っています。これが本当の仁者です。

仁のために死す

yuē:“zhìshìrénrénqiúshēnghàirényǒushāshēnchéngrén。”

《论语》卫灵公第十五-9

素読文:
子曰わく、じんじんは、せいもとめてもっじんがいすることし。ころしてもっじんすことり。

解釈:
志の高い人、仁徳がある人は生きるために仁を害することがない。かえって身を殺して仁を成しとげるものだ。

保身のために嘘をつく、人を裏切る、こういう人は志士仁人とは言えません。
しかし保身のために悪事を働く人は世の中に必ずいます。
政治家、官僚、経営者、上司など権利欲、金銭欲、出世欲、保身などで悪事を働く人がいます。こういう人たちも世の中には必要なのです。

こういう人たちがいるから、小説やドラマが成立するのです(笑)

博学、篤志、切問、近思

xiàyuē:“xuéérzhì(1)qièwèn(2)érjìnrénzàizhōng。”

《论语》子张第十九-6

(1)笃志:志,意为“识”,此为强记之义。
(2)切问:问与切身有关的问题。

素読文:
曰わく、ひろく学びてあつこころざし、せつに問いてちかく思う。仁そのうちり。

解釈:
ひろく学んで見聞をゆたかにし、理想を追求して一心不乱になり、疑問が生じたら切実に師友の教えを求め、すべてを自分の実践上の事として工夫するならば、最高の徳たる仁は自然にその中から発展するであろう。

篤志を「理想を追求し一心不乱」と訳しています。日本語では「困っている人や気の毒な人への思いやり。社会のためになる事業・運動などに熱心で、協力を惜しまないこと。」という意味です。ただ一心不乱にというだけではなく、世のため人のためという意味が込められている様に思います。
ただ知識としての博学ではなく、理想に燃え、身近な問題として考え、行動する。そういうところに「仁」が生まれると理解しました。

大辞林(第三版)より

仁は遠からず

yuē:“rényuǎnzāirénrénzhì。”

《论语》述而第七-29

素読文:
子曰わく:“仁とおからんや。我仁をほっすれば、ここに仁いたる。”

解釈:
仁とは遠くにあるものでは無い、切実に求めればそこに仁はある。

下村湖人の「論語物語」では孔子が以下の様に言っています。

「元来、仁というものは、そんなに遠方にあるものではない。遠方にあると思うのは、心に無用の飾りをつけて、それに隔てられているからじゃ。つまり、求める心が、まだ真剣ではないから、というより仕方がない。」

下村湖人著「論語物語」 P63

「仁」とは自分の外にあると考えると、青い鳥を探す子どもの様に、なかなか見つけることができません。自分の心の中に「仁」があると考えれば、それを育てることができます。

友を以って仁を輔く

zēngyuē:“jūnwénhuìyǒuyǒurén。”

《论语》颜渊第十二-24

素読文:
そうわく、君子はぶんもって友とかいし、友をもって仁をたすく。

解釈:
曾子曰く:君子は教養を以って友と会し共に仁の徳を磨き合うものだ。

子貢仁を為すを問うでは自分を磨くためには仁者を友とせよと孔子が子貢に言っています。「友を以って仁を輔く」とは、共に仁を磨き合うという意味と理解しました。
一緒に酒を飲んであれこれ些事を語り合う朋友も大切であり、ありがたいものです。
しかし互いに切磋琢磨し合うような朋友も必要です。

過ちを見て仁を知る

yuē:“rénzhīguòdǎngguǎnguòzhīrén。”

《论语》里仁第四-7

党:类

素読文:
子曰わく、人のあやまちや、各々おのおのそのとういてす。あやまちをここに仁を知る。

解釈:
子曰く、人がらしだいで過失にも種類がある。だから、過失を見ただけでも、その人の仁、不仁がわかるものだ。

『党』を「類」と解釈するとこのような解釈となります。過ちの類によっては仁の兆しであることもありうる、ということです。

『党』を『郷党』(集落共同体)と解釈すると次のような解釈となります。
人民の過ちというのは、それぞれが住んでいる土地(郷党)の風俗(文化)によるものである。人民の過ちを見れば、その土地の仁の徳による教化(民度)がどこまで進んでいるのかが分かる。

ところで「党」という文字を安岡正篤師は「宜しからぬ人が寄り集まること」であると言っています。
だから「悪党」はあるが「善党」はありません。

過ちをただ責めるのではなく、過ちを過ちとして改める事が出来る人は仁者に近いと考えたいものです。

民をあまねく仁と化す

yuē:“yǒuwángzhěshì*érhòurén。”

《论语》 子路第十三-12

(注)世:一世代、30年ほどをさす。

素読文:
子曰わく、王者おうじゃ有るも、かならにしてのちに仁ならん。

解釈:
たとえ聖人君主と言い得る真の統治者が現われても、少なくとも一世代を経なければ、民をあまねく仁者と化すことはできない。

人々が良き習慣を身につけるためには、親が良い習慣を身につけその子に良い習慣を躾けなければなりません。良い習慣が定着するためには二世代必要なのではないでしょうか?

東日本大震災の折に暴動・略奪もなく人々が整然と助け合う姿を見て、某国の指導者は「我が国の国民は50年経っても日本人のようには振る舞えない」と嘆いたそうです。指導者としてこれではいけません。「50年かかってっでも国民をあまねく仁者と化す」と決意すべきでしょう。

一方で、良い習慣が乱れるのは3年もあれば十分のように思われます。

仁者は孤独ならず

yuē:“yǒulín。”

《论语》里仁第四-25

素読文:
子曰く:“とくならず、かならとなり有り。”

解釈:
徳を積んだ仁者は孤高ではない。必ず同じ志持つ仲間が隣にある。

たとえ遠くに住んでいても孤独ではないという事ですね。
ともえんぽうより来る有り、また楽しからずや。
人知らずして慍らず

仁を志せば悪なきなり

yuē:“gǒuzhìrénrénè*

《论语》里仁第四-4

(注)恶:邪恶

素読文:
子曰わく:いやしくも仁にこころざせば、しきこときなり。

解釈:
志がたえず仁に向ってさえおれば、過失はあっても悪を行なうことはない。

しきこときなり。”を
にくむこときなり。”と読むと「仁を志すならば、人を憎んではいけない」と解釈できます。または
にくまるることきなり。”と読めば、「仁を志していれば、人から憎まれることはない」と解釈できます。

いずれの解釈でも私たちは常に「仁」を大切にしなければならない、という事です。

焉んぞ佞を用いん?

huòyuē:“yōng(1)rénérnìng(2)。”yuē:“yānyòngnìngrénkǒu(3)zēngrénzhīrényānyòngnìng?”

《论语》 公冶长第五-5

(1)雍:孔子の弟子。冉雍。字名は仲弓。
(2)佞:口先がうまいこと。
(3)口给:弁舌が立つ。口数が多い。

素読文:
る人曰く、ようや仁なれどねいならず。子曰く、いずくんぞ侫を用いん?人にあたるにこうきゅうを以ってすれば、しばしば人に憎まる。其の仁を知らず。焉んぞ侫を用いん?

解釈:
ある人曰く、雍は仁者であるが弁が立たない。子曰く、どうして弁がたつのが良いのか?弁がたてば人を口数で言い負かし恨まれる。雍が仁者であるかどうかはわからないが、口数が少ないのは悪いことではない。

以前ご紹介した『巧言令色仁鮮なし』では、孔子は口数の多いものは仁の徳が少ない、と言っています。