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人物評

gòngfāngrén(1)yuēxiánzāi(2)xiá

《论语》宪问第十四-29

(1)方人:人を評論する
(2)赐也贤乎哉:赐(子貢)も賢いものだなぁ。疑問語気。

素読文:
こうひとたくらぶ。いわく:“けんなるかな。われすなわいとまあらず。”

解釈:
孔子は子貢の人物評をからかって偉くなったものだと言ったのでしょう。しかし孔子自身も人物評をしばしばしています。子貢は孔子に「お前は器だ」と言われています。孔子は「君子は器であってはならない」と言っています。格調の高い瑚琏の器と言われてもがっかりしたでしょう。

貧して恨まず、富みて奢らず

yuēpínéryuànnánérjiāo

《论语》宪问第十四-10

素読文:
いわく:“ひんにしてうらむこときはかたく、みておごることきはやすし。”

解釈:
子曰く:“貧乏でも恨みがましくならないことは難しい。しかし富んで奢らないのはたやすいことだ。”

泰山にて

yuē:“zhī。”
gòngyuē:“wèizhī。”
yuē:“yuàntiānyóurénxiàxuéérshàngzhīzhětiān!”

《论语》宪问第十四-35

素読文:
いわく:“われるものきかな。”
こういわく:“なんれぞからんや。”
いわく:“てんうらみず、ひととがめず、下学かがくしてじょうたつす。われものてんか。”

解釈:
孔子晩年の一節です。下村湖人の「論語物語」によると弟子ともども泰山に登り、頂上で弟子たちに語った言葉です。「我を知る者なきかな」は自分の考えが頭抜けて理解できない、という意味ではなく、自分の考えを取り入れて治世を行う国がなかったことを嘆いだのではないでしょうか?
中国だけではなく、日本でも孔子の教えは時空を超えて生き続けています。
「我を知る者なきかな」歳をとった孔子の杞憂だったのでしょう。

百姓を安ず

wènjūnyuē:“xiūjìng。” yuē:“ér?” yuē:“xiūānrén(1)。” yuē:“ér?” yuē:“xiūānbǎixìng(2)xiūānbǎixìngyáo(3)shùn(4)yóubìngzhū?”

《论语》宪问篇第十四-42

(1)安人:上層の人を安心させる。
(2)安百姓:庶民を安心させる。
(3)尧:中得五帝时代(紀元前3077年〜紀元前2029年)第四代皇帝。
(4)舜:中得五帝时代第五代皇帝。

素読文:
子路しろくんう。 いわく:“おのれおさめてもっけいす。” いわく:“かくのごときのみか。” いわく:“おのれおさめてもっひとやすんず。” いわく:“かくのごときのみか。” いわく:“おのれおさめてもっひゃくせいやすんず。おのれおさめてもっひゃくせいやすんずるは、堯舜ぎょうしゅんそれなおこれめり。”

解釈:
子路が君子の道をたずねた。
孔子曰く:“慎みをもって修養することだ”
子路問う:“それだけでしょうか”
孔子曰く:“己を修養して人を安んずることだ”
子路問う:“それだけでしょうか”
孔子曰く:“己を修養して天下の民を安んずることだ。天下万民を安んずるのは、堯や舜のような聖天子も心をなやまされたのだ”

堯や舜の時代はどうだったのかわかりませんが、己を脩めた人も立場が変わると民を安んじるよりは、己を安んじることに熱心になるようです。

言の行いにすぐるを恥ず

yuējūnchǐyánérguòxíng

《论语》宪问第十四-27

素読文:
いわく:“げんおこないにぐるをず。”

解釈:
子曰く:“君子は口ばかりで行動しないのを恥ず。”
孔子は為政-13xiānxíngyánérhòucóngzhī行動が先で言葉は後だ、と言ってます。行動が言葉以下であれば、何をか言わんやです。

その政を謀らず

yuē:“zàiwèimóuzhèng。”zēngyuē:“jūnchūwèi。”

《论语》宪问第十四-26

素読文:
いわく:“くらいらざれば、まつりごとはからず。”
そういわく:“くんおもうことくらいよりでず。”

解釈:
子曰く:“その地位にないものは、その職務について口を出すべきではない。”
曾子曰く:“君子は自らの本分を超えたことを考えない。”

仕事上の処世術では「自分の職位より一つ二つ上の立場から考えて行動せよ」と言います。しかしこれは自分より上位職の行動に口を挟むということではありません。

君子は上達、小人は下達

yuē:“jūnshàng(1)xiǎorénxià(2)。”

《论语》宪问第十四-23

(1)上达:深遠な問題を理解できる。
(2)下达:つまらぬこと、身近な問題に通じる。

素読文:
わく:“くんじょうたつし、しょうじんたつす。”

解釈:
子曰く:“君子は上へ上へと進み、小人は下へ下へと進む”

君子たらんと欲するものは、常に己を高めようと精進しなければならない。小人の如く下世話な世事に関わっている暇はない。

小人に仁者なし

yuē:“jūnérrénzhěyǒuwèiyǒuxiǎorénérrénzhě。”

《论语》宪问第十四-6

素読文:
わく:“くんにしてじんなるものらんか。いましょうじんにしてじんなるものらざるなり。

解釈:
子曰く:“君子は仁を志すが、時として不仁な行いをする者もある。しかし小人は仁を志してはいないので皆仁者ではない。”

本物の仁者は一年365日、一日24時間ずっと仁者だと思います。君子たる者一年365日一日24時間仁者であることを目指すべきかと思いますが、時として不仁な考えが心をよぎることもあるでしょう。しかし君子であるべき地位にあっても、私利私欲に囚われ不仁な行いをする者は、小人となります。

続・管仲仁者なりしか

gòngyuē:“guǎnzhòngfēirénzhěhuángōngshāgōngjiūnéngyòuxiàngzhī。”
yuē:“guǎnzhòngxiànghuángōngzhūhóukuāngtiānxiàmíndàojīnshòuwēi(1)guǎnzhòngzuǒrèn(2)ruòzhīwéiliàng(3)jīng(4)gōuérzhīzhī(5)。”

《论语》宪问第十四-17

(1)微:ない。
(2)被发左衽:髪を振り乱し、左前に着物を着る。夷狄の風習に染まること。
(3)谅:つまらぬことを守って取るに足らない信頼を得ること。
(4)自经:首を吊って自殺すること。
(5)渎:溝渠。排水路。

素読文:
こうわく:“かんちゅうは仁者にあらざるか。かんこうこうきゅうを殺すに、死するあたわず。またこれたすく。”
子曰わく:“管仲かんこうたすけて、しょこうたらしめ、天下をいっきょうす。たみいまいたるまでそのく。管仲なかりせば、われそれはつこうむり、えりひだりにせん。ひっひっまことすや、みずか溝瀆こうとくくびれてこれを知るものきがごとくならんや。”

解釈:

子貢曰く:“管仲は仁者とは言えないでしょう。桓公が公子糾を殺した時に公子糾に殉じて死ぬこともせず、主殺しの桓公に仕えてその政を補佐したではないですか。”
孔子曰く:“管仲が桓公を補佐し諸侯の覇者たらしめ天下を統一安定したからこそ、今日まで民はその恩恵を受けているのだ。もし管仲がいなければ夷狄の侵略を受け、我々は夷狄の風俗に染まり髪を振り乱し、着物を左前に着ていただろう。匹夫匹婦がつまらぬ義理人情にこだわり首をくくってドブの中で死んでいくのとは違うのだ。”

《宪问第十四-16》の続きです。

管仲仁者なりしか

子貢も子路と同様に、公子糾に仕えていた管仲が、公子糾を殺した桓公に仕えたことを非難しています。
しかし孔子は、管仲が誰に仕えていようが天下統一安定の実績を評価しています。そのため外敵である夷狄から中華を守ることができた。主と共に殉死する、主殺しに対して離反する、このような行為は巷の凡人達がつまらな義理人情にこだわり心中するようなものだと一刀両断しています。それより天下国家を考えて行動せよ、ということでしょう。

管仲仁者なりしか

yuē:“huángōng(1)shāgōngjiū(2)zhào(3)zhīguǎnzhòng(4)”。 yuē:“wèirén?”
yuē:“huángōngjiǔ(5)zhūhóubīngchēguǎnzhòngzhīrénrén”。

《论语》宪问篇第十四-16

(1)桓公:斉の君主。
(2)公子纠:桓公の庶兄(妾の子で兄)。
(3)召忽:公子糾の臣下。公子纠が殺されたため殉死した。
(4)管仲:桓公の臣下。
(5)九合:多くの人を寄せ集めること。

素読文:
わく:“かんこうこうきゅうを殺す。しょうこつこれに死し、かんちゅうは死せず。” 曰わく:“いまだ仁ならざるかと。”
子曰わく、“かんこうしょこうきゅうごうし、へいしゃもってせざるは、管仲の力なり。じんかんや、其仁に如かんや。”

解釈:
子路曰く:“桓公が公子糾を殺した時、召忽は公子糾に殉じて自害したのに、管仲は生きながらえている。こういう者は仁者とは言えないのではないでしょうか。”
孔子曰く:“桓公が武力を用いず諸侯を糾合したのは管仲の力である。管仲ほどの仁者は滅多にない。

桓公が腹違いの兄・公子糾を殺した時に公子糾の臣下・召忽は自害しています。同じく公子糾の臣下であった管仲は殉死しないばかりか、主殺しの桓公に使えた。子路はこれを「仁」の心から外れる、と言っています。
しかし孔子は桓公が武力によらず諸侯連合を築き上げ夷狄から中国を守ったのは管仲の力があったからだと言っています。
「仁」とは主従の間だけではなく、もっと広く国民のためにあるものだという教えでしょう。