子曰:“唯女子与小人为难养也。近之则不逊,远之则怨。”
《论语》阳货第十七-25
素読文:
子曰く:“唯女子と小人とは、養い難しと為す。之を近づくれば則ち不なり。之を遠ざくれば則ち怨む。”
解釈:
子曰く:“女子と小人は扱いにくい。近づけると付け上がるし、遠ざけると恨む”
女子も小人扱いです。孔子には女性の弟子はいなかった様です。
《论语》阳货第十七-25
素読文:
子曰く:“唯女子と小人とは、養い難しと為す。之を近づくれば則ち不なり。之を遠ざくれば則ち怨む。”
解釈:
子曰く:“女子と小人は扱いにくい。近づけると付け上がるし、遠ざけると恨む”
女子も小人扱いです。孔子には女性の弟子はいなかった様です。
子曰:乡原(1),德之贼(2)也。
《论语》阳货第十七-13
(1)乡愿:田舎のえせ君子。指導に表裏があり言行が不一致。
(2)德之贼:徳を害する者。
素読文:
子曰く、郷原は徳の賊なり。
解釈:
孔子曰く:“田舎のえせ君子には真の道徳を害する者がいるものだ。
『乡愿』を田舎のえせ君子と訳しましたが、都会のえせ君子も同様に『徳之賊』だと思います。
《论语》阳货第十七-24
(1)恶:嫌悪
(2)下流:下級の
(3)讪:誹謗
(4)窒:不合理、頑固
(5)赐:子貢のこと
(6)徼:盗む
(7)智:知恵
(8)逊:不遜
(9)讦:他人を攻撃して暴露する
素読文:
子貢曰く、君子も亦た悪むこと有るか。
子曰く、悪むこと有り。人の悪を称する者を悪む。下流に居て上を訕る者を悪む。勇にして礼無き者を悪む。果敢にして窒がる者を悪む。曰く、賜や亦悪むこと有るか。
徼めて以て知と為す者を悪む。不孫にして以て勇と為す者を悪む。訐いて以て直と為す者を悪む。
解釈:
子貢が孔子に対して、人格者であるべき君子もまた人を憎むことがあるか?と尋ねる。
孔子は、他人の悪事を暴く者。自分の上位者を悪く言う者。勇気があっても礼のない者。果敢であっても道理にかなわない者。君子であっても、こう言う連中を憎む。子貢よ、お前はどうだ。
私は、他人の業績を掠め取り自分のものとする者、不遜であることを勇気と間違えている者、他人の秘密を暴いて正義だと考えている者、こう言う連中を憎みます。
《论语》阳货第十七-25
(1)女子:教養のない女性
素読文:
解釈:
子曰く「女子と小人は付き合い方に困る。近づければのさばり、遠ざければ恨む」
孔子は《论语》为政第二-14でこう言っています。
子曰わく、君子は周して比せず。小人は比して周せず。
女子とは女性全般ではなく、教養のない女性のことです。念のため。
子路曰:“君子尚勇(1)乎?”
子曰:“君子义(2)以为上。君子有勇而无义为乱,小人有勇而无义为盗。”《论语》阳货第十七-23
(1)勇:勇気
(2)义:正義
素読文:
子路曰わく:“君子は勇を尚ぶか。”
子曰わく:“君子は義以て上と為す。君子勇有りて義無ければ乱を為す。小人勇有て義無ければ盗を為す。”
解釈:
子路が「君子は『勇』を尊ぶか?」と孔子に問う。
孔子は答えて曰く「君子は『義』を重視する。君子に『勇』があり『義』がなければ、反乱を起こす。小人に『勇』があり『義』がなければ盗賊になる」
君子たるもの『義』がなければならない。その上で『義』を貫く『勇』が必要。
子曰:色(1)厲(2)而内(3)荏(4),譬诸小人,其犹穿窬之盗(5)也欤。
《论语》阳货第十七-12
(1)色:うわべ
(2)厲(厉):威厳がある
(3)内:内心
(4)荏:意志が弱い
(5)穿窬之盜:壁に穴を開け、塀を登る盗賊
素読文:
子曰わく、色厲しくして内荏らかなるは、諸を小人に譬うれば、其猶お穿窬の盗のごときか。
解釈:
見かけは威厳があっても内心軟弱な人間は、小人に例えればコソ泥のようなものだ。
小人の反対が君子だとすれば、君子は色荏にして内厲「人当たりは良くても、心の中では自己の理想を貫く人」となるでしょうか。
子之(1)武城(2),闻弦歌(3)之声。夫子(4)莞尔(5)而笑曰:“割鸡焉用牛刀?”
子游(6)对(7)曰:“昔者偃(8)也闻诸(9)夫子曰:‘君子学道则爱人,小人学道则易使也(10)。’”
子曰:“二三子(11),偃之言是也,前言戏之(12)耳(13)。”《论语》阳货第十七-4
(1)之:行く。
(2)武城:魯国の小さな町。子游が武城の宰相を務めていた。
(3)弦歌:琴の音に合わせて歌う。
(4)夫子:孔子に対する尊称。
(5)莞尔:微笑する。
(6)子游:孔門十哲のひとり。姓は言、名は偃、呉の人。
(7)对:(目上の人に対して)答える。
(8)偃:子游の名。
(9)诸:これ。後ろの“君子学道则爱人,小人学道则易使也”を指す。
(10)易使也:従順になりやすい。
(11)二三子:弟子たちに呼びかける言葉。
(12)戏之:冗談を言う。
(13)耳:〜しただけ。
素読文:
子、武城に之き、絃歌の声を聞く。夫子莞尓として笑いて曰わく、鶏を割くに、焉んぞ牛刀を用いん。
子游対えて曰わく、昔者偃や、諸を夫子に聞く。曰わく、君子道を学べば則ち人を愛し、小人道を学べば則ち使い易し、と。
子曰わく、二三子、偃の言是なり。前言は之に戯れしのみ。
解釈:
武城を歩くと弦歌の声が聞こえる。孔子は、微笑みながら「鶏を割くのに牛刀を使うまでもなかろう」と言われた。
子游は「以前私は、師から「為政者が道を学び民を愛し、民が道を学べば、治めやすい」と学びました」と孔子にいう。
孔子は、門人たちに向かって「子游のいう通りだ。今私が言ったのは冗談だ」と言った。
門人の子游が治めていた武城の街を歩くと、人々の文化の高さや治安の良さを感じた孔子は、嬉しくなり思わず「牛刀割鶏」と言ってしまったのでしょう。
宰我(1)问:三年之丧,期已久矣。君子三年不为礼,礼必坏;三年不为乐,乐必崩。旧谷既没,新谷既升。钻燧改火,期可已矣。
子曰:食夫稻,衣夫锦,于汝安乎?
曰:安。
汝安,则为之。夫君子之居丧,食旨不甘,闻乐不乐,居处不安,故不为也。今汝安则为之。
宰我出。子曰:予之不仁也。子生三年 ,然后免于父母之怀。夫三年之丧,天下之通丧也。予也,有三年之爱于其父母乎?《论语》阳货第十七-21
素読文:
宰我問う。三年の喪は期已に久し。君子三年礼を為さざれば、礼必ず壊れん。三年楽を為さざれば、楽必ず崩れん。旧穀既に没きて、新穀既に升る。燧を鑚りて火を改む。期にして已むべし。
子曰わく、夫の稲を食い、夫の錦を衣る、汝に於て安きか。
曰わく、安し。
汝安くば則ち之を為せ。夫れ君子の喪に居るや、旨きを食えども甘からず、楽を聞けども楽しからず、居処安からず。故に為さざるなり。今汝安くば則ち之を為せ。
宰我出ず。子曰わく、予の不仁なるや。子生れて三年、然る後に父母の懐より免る。夫れ三年の喪は、天下の通喪なり。予や其父母に三年の愛有らんか。
解釈:
宰我問う:“父母の喪は三年となっているが、期間が長すぎる。もし君子が三年間も礼を修めなかったら、礼はすたれてしまう。もし三年間も楽に遠ざかったら、楽がくずれてしまう。穀物は一年で食いつくされ、新しい穀物が実る。火を擦り出す木は、四季それぞれの木が一巡して、またもとにもどる。それを考えると、父母の喪も一年で十分に思える。
子曰く:“お前は、父母が亡くなり一年たてば、うまい飯をたべ、美しい着物を着ても平気なのか?”
宰我曰く:“平気です”
子曰く:“お前がなんともなければ、好きなようにするがよかろう。だが、君子ならば、喪中にはご馳走を食べてもうまくないし、音楽を聞いても楽しくないし、どんなところにいても気がおちつかないものなのだ。だからこそ、一年で喪を切りあげるようなことをしないのだ。もしお前がなんともなければ、そうすればよい”
それで宰我はひきさがった。
子曰く:“予は不仁なり。人の子は生れて三年たってやっと父母の懐をはなれる。だから、三年間父母の喪に服するのは天下の定例になっている。いったい予は三年間の父母の愛をうけなかったとでもいうのだろうか”
宰我は合理主義者のようです。孔門十哲なのに本編では孔子から見放されたような言われ方をしています。
阳货(1)欲见孔子,孔子不见,馈(2)孔子豚。孔子伺其亡(3)也,而往拜之,遇诸途(4)。谓孔子曰:来,予与尔言。曰:怀其宝而迷其邦,可谓仁乎?曰:不可。好
hào 从cóng 事shì 而ér 亟qì (5)失shī 时shí ,可kě 谓wèi 智zhì 乎hū ?曰yuē :不bù 可kě 。日rì 月yuè 逝shì 矣yǐ ,岁suì 不bù 我wǒ 欤yú 。孔kǒng 子zǐ 曰yuē :诺nuò ,吾wú 将jiāng 仕shì 矣yǐ 。《论语》阳货第十七-1
素読文:
陽
解釈:
魯の大夫・陽貨が孔子に会おうとしたが、孔子は応じなかった。陽貨は孔子に豚肉を贈った。孔子は陽貨の留守を狙ってお礼に出かけた。折悪く帰りの途上で陽貨と出会ってしまう。
陽貨曰く:“あなたに話があるから家に来なさい”
陽貨は尋ねる:“胸中に宝を抱き、国家の混迷を傍観している者を仁者と言えるか?”
孔子:“言えません”
陽貨:“国政に従事したいと願いながら、しばしば機会を失う者を知者と言えるか?”
孔子:“言えません”
陽貨:“月日は流れ、歳は人を待ってはくれぬ”
孔子:“わかりました。いずれ仕官いたします”
孔子はいずれ仕官すると陽貨に言っていますが、陽貨に仕官しなかった。その理由は論語には出てきません。
陽貨が孔子を招聘したいと思っていた頃、陽貨は主に反旗を翻し魯の実権を握っています。孔子はこの件が気に入らなく陽貨に会おうとしなかったのではないでしょうか?
子
zǐ 曰yuē :“由yóu (1)也yě ,汝rǔ 闻wén 六liù 言yán (2)六liù 蔽bì (3)矣yǐ 乎hū ?”
对duì 曰yuē :“未wèi 也yě 。”
“居jū ,吾wú 语yù 汝rǔ 。好hào (4)仁rén 不bú 好hào 学xué ,其qí 蔽bì 也yě 愚yú ;好hào 智zhì 不bú 好hào 学xué ,其qí 蔽bì 也yě 荡dàng ;好hào 信xìn 不bú 好hào 学xué ,其qí 蔽bì 也yě 贼zéi ;好hǎo 直zhí 不bú 好hào 学xué ,其qí 蔽bì 也yě 绞jiǎo ;好hào 勇yǒng 不bú 好hào 学xué ,其qí 蔽bì 也yě 乱luàn ;好hào 刚gāng 不bú 好hào 学xué ,其qí 蔽bì 也yě 狂kuáng 。”《论语》阳货篇第十七-8
素読文:
子
対
”居
解釈:
子曰く:“由よ、お前は六つの善言に六つの弊害があるということを聞いたことがあるか”
子路がこたえた。“まだ聞いたことがございません”
子曰く:“では、かけなさい。話して聞かそう。仁を好んで学問を好まないと、愚かな博愛主義に陥りがちとなる。知を好んで学問を好まないと、野放図な妄想に陥りがちなものだ。信を好んで学問を好まないと、周りに害をなしがちとなる。直を好んで学問を好まないと、杓子定規となりがちとなる。勇を好んで学問を好まないと、血気にはやって秩序をみだしがちとなる。剛を好んで学問を好まないと、理非をわきまえない狂気じみた振る舞いをしがちとなる。”
人にとって六言「仁・知・信・直・勇・剛」は美徳だが、それを裏付ける「学」がなければ、却って害となる。ここで言う「学」とは学歴とか知識のことではなく「物事を深く考える」ということだろうと思います。