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仁者は騙せるか?

zǎi(1)wènyuērénzhěsuīgàozhīyuējǐngyǒurényāncóngzhīyuēwéiránjūnshì(2)xiàn(3)wǎng(4)

《论语》雍也第六-26

(1)宰我:姓は宰、名は予、字あざなは子我。孔門十哲のひとり。
(2)逝:行かせる。
(3)陷:井戸の中へ入らせる。
(4)罔:だます。

素読文:
さいいてわく、仁者はこれげてせいに仁りと曰うといえども、それこれしたがわん。子曰く、なんれぞそれしからんや。君子はかしむべきなり。おとしいるべからざるなり。あざむくべきなり。うべからざるなり。

解釈:
宰我問いて曰く:「仁者は、もしも井戸の中に人が落ちたと騙したら、すぐ行って井戸に飛び込むだとろううか?」
孔子曰く:「どうしてそんなことをしよう。君子をだまして井戸まで行かせることはできる。しかし、おとし入れることはできない。人情に訴えてあざむくことはできても、正しい判断力を失わせることはできないのだ」

宰我は孔子の弟子の中でも弁の立つ人と言われている様です。孔子に向けた宰我の問いは、議論のための議論と感じてしまいます。

芸に游ぶ

yuē:“zhìdào(1)rényóu(2)。”

《论语》述而第七-6

(1)德:道を心の中に貫徹し失うことがないこと。
(2)艺:身分あるものに必要とされた6種類の基本教養。礼(礼節)・楽(音楽)・射(弓道)・御(馬術)・書(文字)・数(数学)の六芸。

素読文:
子曰わく、みちこころざし、とくり、じんり、げいあそぶ。

解釈:
人としての道に志し、徳を守り、仁を行いの元として、六芸を学ぶことに喜びを見出したい。
「芸に游ぶ」を息抜きに芸事を楽しむ、と解釈するよりは、自らの教養を高めることに喜びを見出す、と解釈する方が論語らしいと感じます。

任重くして道遠し

zēng(1)yuē:“shìhóng(2)rènzhòngérdàoyuǎnrénwéirènzhòngérhòuyuǎn。”

《论语》泰伯第八-7

(1)曾子:孔子の弟子。姓はそう、名はしんあざな子輿しよ。顔回・曾子・子思・孟子を合わせて「四聖」と呼ぶ
(2)弘毅:度量が大きく、意志の強いこと。

素読文:
そうわく:“もっこうならざるべからず。にん重くして道遠し。仁もっおのにんす。またおもからずや。死してのちむ。またとおからずや。

解釈:
「士」(志高く生きようという者)であるからには、器が大きくつよくなければならない。任務は重くその道は遠い。仁を持って己の任務とすることは、なんと重いことだ。死ぬまでのその任務は続く、なんと遠い道のりだ。

孔子は「仁は遠からず」とも言っています。しかし仁を発揮して生きることは、重いく遠い道だ。と理解しました。

余談ですが、我が恩師のお名前は「弘毅」です。論語を読んでいて、懐かしい恩師のお名前に出会い、改めて恩師の薫陶に感謝の念を抱いております。

貧賤に留まる覚悟

yuē:“guìshìrénzhīsuǒdàozhīchùpínjiànshìrénzhīsuǒdàozhījūnrénchéngmíngjūnzhōngshízhījiān(1)wéirénzào(2)shìdiānpèi(3)shì 。”

《论语》里仁第四-5

(1)终食之间:食事を済ますだけの時間。わずかな時間。
(2)造次:とっさの時。
(3)颠沛:危急の時。

素読文:
子曰わく:“とみたっときとは、これ人のほっする所なり。その道をもってせざれば、これるともらざるなり。ひんせんとは、是人のにくむ所なり。その道を以ってせざれば、これるとも去らざるなり。君子は仁を去りて、いずくにか名をさん。君子は終食しゅうしょくかんも仁にたがうこと無く、造次ぞうじにもかならここおいてし、顚沛てんぱいにもかならここおいてす。”

解釈:
人は富や地位が欲しいものだ。しかし道に外れた行いでそれを得たのであれば、富や地位を享受すべきではない。人は貧困や卑賤を厭うものだ。しかし道を誤ってそうなったのでなければ、無理にそこから逃れようとすることはない。君子たるもの仁を忘れて君子の名に値せず。君子は束の間も仁に背かぬ様に心がけるべきだ。それどころかとっさの時、危急の時にも仁の道を外れてはならない。

下村湖人は『终食之间』を箸の上げ下ろしの間と解釈しています。一瞬たりとも仁の心を忘れない、という心が伝わる解釈だと思います。

仁に親しむ

yuē:“xìaochūjǐnérxìnfànàizhòngérqīnrénxíngyǒuxuéwén。”

《论语》学而第一-6

素読文:
子曰わく:“ていりてはすなわこうでてはすなわていつつしみてしんあり、ひろしゅうあいしてじんしたしみ、おこないてりょくらば、すなわもっぶんまなべ。”

解釈:
年少時は家庭にあり父母に孝を尽くし、世間に出ては年長者に従順であることが大切である。言動を慎み、信義を守り、広く衆人を愛し、仁徳のある人と親しむのが良い。そして余力があれば、古典を学ぶことを志すのが良い。

弟子を弟子でしと解釈するとそのあとの意味がわからなくなります。弟子ていしと読み、年少者と考えるのが良さそうです。文とは、詩、書、礼、楽などの中国古典のことを指す様です。

子罕に利をいう

hǎnyánmìngrén

《论语》子罕第九-1

素読文:
まれめいじんとをう。

解釈:
孔子はめったに利益の問題にはふれられなかった。たまたまふれられると、必ず天命とか仁と結びつけて話された。

与を「〜および」と解釈すると、
孔子はめったに利益と天命と仁について語らなかった。
となります。しかし論語の中には『仁』に関する記述が多くあります。

また与を「賛同、肯定」と解釈している例もあります。この場合は、
孔子はめったに利益について語らなかったが、天命や仁を賛同した。
という解釈になります。

与を「〜と結びつけて」と解釈するのが一番しっくりします。

三月仁に違わず

yuēhuíxīnsānyuè(1)wéirényuè(2)zhìyānér

《论语》雍也第六-7

(1)三月:長い時間
(2)日月:短い時間

素読文:
子曰わく:“かいや、その三月さんげつ仁にたがわず。そのすなわち日に月にいたるのみ。”
解釈:
顔回は長らく仁徳を保つことができる。しかしその他の者たちは短い間、仁徳を発揮するのみだ。

孔子は顔回(顔淵)を高くかっていました。その他の弟子たちに対してお前たちも顔回のように仁徳を発揮せよ、とハッパをかけている場面と考えることができそうです。

しかし下村湖人はこれを、「顔回よ、三月の間、心が仁の原理を離れなければ、その他の衆徳は日に月に進んでくるものだ。」と解釈しています。
仁徳から離れずにいることができれば、その他のことは短期間に習得できるものだ、と顔回に語っている場面になります。

人の過ちや

yuē:“rénzhīguòdǎngguānguòzhīrén。”

《论语》里仁第四-7

素読文:
子曰く:“人のあやまちや、各々おのおのそのとうおいてす。あやまちをここじんを知る。”

解釈:
人がらしだいで過失にも種類がある。だから、過失を見ただけでも、その人の仁、不仁がわかるものだ。

人は過ちを犯すものです。しかし仁者が犯す過ちと、不仁者が犯す過ちは性質が異なります。過ちの内容をよく見れば、それが仁者によるものか不仁者によるものか区別がつく、という意味と理解しました。
『党』をその人が属する集団と解釈する読み方もあるようです。

知者は水、仁者は山

yuēzhì(1)zhěshuǐrénzhěshānzhìzhědòngrénzhějìngzhìzhěrénzhě寿shòu

《论语》雍也第六-23

(1)知:zhìに同じ。

素読文:
子曰く:“知者は水を楽しむ。仁者は山を楽しむ。知者は動く。仁者は静かなり。知者は楽しむ。仁者は寿いのちながし。”

解釈:
知者は水に歓びを見出し、仁者は山に歓びを見出す。知者は活動的であり、仁者は静寂である。知者は変化を楽しみ、仁者は永遠のなかに安住する。

知者は、水の流れ、動、変化を好む。
仁者は、山、静寂、変わらぬ永遠を愛する。
つまり知者はその知恵で世の中を改善することに喜びを見出す。一方仁者は世の中の真理に目を向けそれを守ろうとする。と解釈しました。

仁無くして礼なし

yuē:“rénérrénrénérrényuè?”

《论语》八佾第三-3

素読文:
子曰わく:“人にしてじんならば、れい如何いかんせん。人にしてじんならば、がく如何いかんせん。

解釈:
不仁な人が礼を行なったとてなんになろう。不仁な人ががくそうしたとてなんになろう。

「仁徳を持って礼を尽くさねば、形だけのモノになる。仁徳のない音楽は人の心に響かない。」という意味です。