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顔淵の死(門人の思い)

yányuānménrénhòuzàngzhīyuē:“。”ménrénhòuzàngzhī

yuē:“huíshìyóushìyóufēièrsān(1)。”

《论语》先进第十一-11

(1)二三子:数名の門人たち

素読文:
顔淵がんえんす。門人もんじんあつこれほうむらんとほっす。いわく:“不可ふかなり”と。門人もんじんあつこれほうむる。
いわく:“かいわれることなおちちのごとくせり。われることなおのごとくするをざるなり。われにはあらざるなり。さんなり。”

解釈:
孔子が最も愛した弟子・顔淵が死んでしまいます。しかも自分より30歳も年下。孔子の嘆きは尋常ではなかったようです。
顔淵死す(孔子の思い)
顔淵の死を慟せり

顔淵は、あばら家に住み一膳の飯、一杯の水で生活をしていました。こういう一切の楽しみを捨て、求道者の如く生きている顔淵を孔子はこよなく愛していたのでしょう。
賢なるかな回也

門人たちは顔淵を盛大な葬儀で送り出したかったが、孔子にはそれは顔淵の生前の志と違うと考えたのでしょう。孔子のそんな思いが理解できずに門人たちは盛大な葬儀を催した。
最も愛した弟子・顔淵を失った孔子の悲しみは更に深くなったでしょう。

顔淵の死を慟せり

yányuānzhītòngcóngzhěyuē:“tòng。”yuē:“yǒutòngfēirénzhīwéitòngérshuíwéi?”

《论语》先进第十一-10

素読文:
顔淵がんえんす。これこくしてどうす。従者じゅうしゃいわく:“どうせりと。”曰いわく:“どうするありしか。ひとためどうするにあらずして、たがためにかせんと。”

解釈:
顔淵死す。孔子は慟哭する。従者曰く“子は慟哭されました。”
子曰く“これを慟哭せずして、誰のために慟哭することがあろう”

孔子が最も愛した弟子・顔淵が死んでしまう。しかもまだ30歳を越したばかりです。孔子の悲しみは如何程であったでしょう。

顔淵死す(父の思い)

yányuānyán(1)qǐngzhīchēwéizhīguǒ(2)

yuē:“cáicáiyán(3)yǒuguānérguǒxíngwéizhīguǒcóngzhīhòuxíng。”

《论语》先进第十一-8

(1)颜路:顔淵の父親。
(2)椁:棺を入れる外棺。
(3)鲤:孔子の長男。名はあざなは伯魚。

素読文:

顔淵がんえんす。がんくるまもっこれかくつくらんとう。
いわく:“さいさいも、また各々おのおのうなり。せしとき、かんりてかくし。われこうしてもっこれかくつくらざりしは、われたいしりえしたがい、こうすべからざるをもってなり。”

解釈:

顔淵が死んだ。父の顔路は彼のために外棺を造ってやりたいと思った。そこで孔子に願った。
「子の車をいただき、それを金にかえて、外棺を作ってやりたいと思います」
子曰く「才能があろうとなかろうと、子の可愛いさは同じだ。私も鯉が死んだ時には、せめて外棺ぐらい作ってやりたいと思った。しかし内棺だけですますことにした。車を売って外棺を作ってやることもできただろう。しかし、私があえてそれをしなかったのは、私も大夫であるからには、職掌がら、徒歩で出歩くわけにいかなかったからなのだ」

孔子は顔淵のことを「才不才」などと言っていますが、孔子自身は顔淵の才能を一番評価していたはずです。

顔淵死す(孔子の思い)

yányuānyuē:“tiānsàngtiānsàng。”

《论语》先进第十一-9

素読文:
顔淵がんえんす。いわく:“ああてんわれほろぼせり。てんわれほろぼせり。”

解釈:
顔淵が死に孔子は嘆き悲しんだ。「ああ、天は我を滅ぼせり。天は我を滅ぼせり」
孔子は顔淵の知性を高く評価し、弟子の中で最も愛していました。30歳年下の顔淵に先立たれた孔子の悲しみは深いものだったでしょう。

三年学びて谷に至らず

yuē:“sānniánxuézhì(1)。”

《论语》泰伯第八-12

(1)谷:俸禄

素読文:

いわく、三年さんねんまなびてこくいたらざるは、やすからざるなり。

解釈:

三年学問をしても、俸禄を得ようとしない者は得難い人物だ。

漆彫開は仕官を勧められて断ったことを、孔子は評価している。《論語》公冶长第五-6
孔子自身が長い間どこの諸侯にも仕えず、弟子の指導をしている。これらの章ではそうした孔子の姿勢が表れているのだろうか。

漆雕开

使shǐdiāokāi(1)shìduìyuēzhīwèinéngxìnyuè

《论语》公冶长第五-6

(1)漆雕开:孔子の弟子。姓は漆雕、名は开。あざなは子開。

素読文:
漆彫開しつちょうかいをしてつかえしむ。こたえていわく、われこれいましんずることあたわず、よろこぶ。

解釈:
孔子が漆彫開に仕官を勧めた。漆彫開答えて曰く「私はまだ任を全うする自信がありません」
孔子はそれを聞いて喜んだ。

早く仕官して禄を得たい、と考えるのは人情でしょう。しかし漆彫開は禄を得ることより、職責を果たすことを重視した。その姿勢を孔子は喜んだのでしょう。

論語で漆彫開が出てくるのはこの章だけです。
孔子を喜ばせる答えをしていますが、顔淵、子路、子貢などの常連組と比べる
と影が薄いようです。

夫何远之有

tángzhīhuāpiānfǎnérěrshìshìyuǎnér
yuē:“wèizhīyuǎnzhīyǒu。”

《论语》子罕篇第九-31

素読文:

唐棣とうていはなへんとしてはんせり。なんじおもわざらんや。しつとおければなり。
いわく:“いまれをおもわざるかな。なんとおきことからん。”

解釈:

前半は、昔の流行はやりうたか何かでしょう。
下村湖人はこれを
「ゆすらうめの木花咲きゃ招く、ひらりひらりと色よくまねく。
招きゃこの胸こがれるばかり、道が遠くて行かりゃせぬ。」
と訳しています。(「論語物語」)

孔子は、行き詰まって悩んでいる冉求をこう言って慰めたそうです。
歌は恋しくても遠くて会いにゆけないと言っているが、本当に恋しければ道が遠いのも障害にはならない。
倒れる前に自分の力が足りないのを嘆くものではない。

もっと求道心を持てと言いたかったのでしょう。

鬼神に仕うるを問う

wènshì(1)guǐshén
yuē:“wèinéngshìrényānnéngshìguǐ。”
yuē:“gǎnwèn。”
yuē:“wèizhīshēngyānzhī。”

《论语》先进篇第十一-12

(1)事:仕える。奉仕する。

素読文:

季路きろしんつかうることをう。
いわく、いまひとつかうることあたわず、いずくんぞつかえん。
いわく、えてう。
いわく、いませいらず、いずくんぞらん。

解釈:

季路(子路)は、鬼神に仕えることを尋ねた。
孔子曰く:人に仕えることも分からないのに、鬼神に使えることが理解できようか?
季路重ねて問う:では死とは何でしょうか?
孔子曰く:生が分からないのに死が分かる道理がない。

難しいことを考える前に、目の前のことを理解せよ。
という教えでしょうか。

老者を安んじ、朋友を信じ、若者を懐けん

yányuānshì(1)yuē:“yáněrzhì。”
yuē:“yuànchēqīngqiú(2)péngyǒugòngzhīérhàn。”
yányuānyuē:“yuànshànshīláo。”
yuē:“yuànwénzhīzhì。”
yuē:“lǎozhěānzhīpéngyǒuxìnzhīshàozhě怀huáizhī。”

《论语》公冶长第五-26

(1)侍:傍に立ってかしずく
(2)衣轻裘:上着や軽い毛皮の衣服

素読文:

顔淵がんえん季路きろす。いわく:“なんおのおのなんじこころざしわざる。”
子路しろいわく:“ねがわくはしゃ軽裘けいきゅうを、朋友ほうゆうともにし、これやぶりてうらからん。”
顔淵がんえんいわく:“ねがわくはぜんほこることく、ろうほどこすことからん。”
子路しろいわく:“ねがわくはこころざしかん。”
いわく:“老者ろうしゃこれやすんじ、朋友ほうゆうこれしんじ、少者しょうしゃこれなつけん。”

解釈:

孔子が季路(子路)と顔淵に向かって志を問うた。
季路は仲間と物を分け合い、それを破損しても怒らない様にしたい、と答える。
顔淵は良い点を誇ることなく、労を衒うことなく自分がなすべきことをやりたい、と答える。
季路に問われた孔子は、老人の心を安らかにし、朋友とは信を持って交わり、年少者には親しまれたい、とだけ答えた。

下村湖人は「論語物語」の中で次の様に解説しています。
孔子の言葉は季路にはあまり響かなかった様だが、顔淵は自分の考えに自己中心的な面が残っているのに対し、孔子の考えが他者中心であることを知り、自分の足りなさを恥じた。

英霊公孔子に陣を問う

wèilínggōngwènzhèn(1)kǒngkǒngduìyuē:“dòuzhīshì(2)chángwénzhījūnzhīshìwèizhīxuémíngsuìxíng。”

《论语》卫灵公第十五-1

(1)阵:戦闘時の軍陣
(2)俎豆之事:祭事における祭具の並べ方などの決まり

素読文:

えい霊公れいこうじんこうう。
こうこたえて曰いわく、とうことは、すなわかつこれけり。軍旅ぐんりょことは、いまこれまなばざるなりと。
明日めいじつついる。
解釈:

衛の霊公は孔子に戦陣について問う。
孔子答えて曰く:“祭事のことならば精通しておりますが、軍旅のことは学んだことがありません”
翌日には衛の国から逃れた。

孔子は霊公とその息子との争いに関わるのを避けて衛の国をさります。
その後孔子と弟子たちは諸国を彷徨い、食糧にすら困窮する。この時の孔子と弟子たちのやりとりが「窮して濫れず」です。