子曰:“述而不作,信而好古,窃比于我老彭(1)。”
《论语》述而第七-1
(1)老彭:彭祖。中国の神話の中で長寿の仙人。孔子は彼を大変尊敬している。
素読文:
子曰く:“述べて作らず。信じて古を好む。窃かに我が老彭に比す。”
解釈:
孔子曰く:“私は古代の教えを伝えるだけで、自分の説を説いているわけではない。それでも老彭と肩を並べる所まで来たと思う”
我々から見ると、孔子のこの言葉は極端な謙遜にしか思えません。
子曰:“述而不作,信而好古,窃比于我老彭(1)。”
《论语》述而第七-1
(1)老彭:彭祖。中国の神話の中で長寿の仙人。孔子は彼を大変尊敬している。
素読文:
子曰く:“述べて作らず。信じて古を好む。窃かに我が老彭に比す。”
解釈:
孔子曰く:“私は古代の教えを伝えるだけで、自分の説を説いているわけではない。それでも老彭と肩を並べる所まで来たと思う”
我々から見ると、孔子のこの言葉は極端な謙遜にしか思えません。
子曰:“不患人之不己知,患不知人也”
《论语》学而第一-16
素読文:
子曰く:“人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患うるなり。”
解釈:
世間に認められないことを憂えず、世の人々の能力を知らないことを憂う。
憲問第十四-35で孔子は自分の能力が治世に活かされないのを嘆いて「我を知るは天のみか」と言っています。さすがの孔子も晩年には少し愚痴っぽくなったのでしょうか。
子曰:“莫我知也夫。”
子贡曰:“何为其莫知子也。”
子曰:“不怨天,不尤人,下学而上达,知我者其天乎!”《论语》宪问第十四-35
素読文:
子曰く:“我を知るもの莫きかな。”
子貢曰く:“何為れぞ其れ子を知る莫からんや。”
子曰く:“天を怨みず、人を尤めず、下学して上達す。我を知る者は其れ天か。”
解釈:
孔子晩年の一節です。下村湖人の「論語物語」によると弟子ともども泰山に登り、頂上で弟子たちに語った言葉です。「我を知る者なきかな」は自分の考えが頭抜けて理解できない、という意味ではなく、自分の考えを取り入れて治世を行う国がなかったことを嘆いだのではないでしょうか?
中国だけではなく、日本でも孔子の教えは時空を超えて生き続けています。
「我を知る者なきかな」歳をとった孔子の杞憂だったのでしょう。
《论语》为政第二-4
素読文:
子曰く:“吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従いて、矩を踰えず。”
解釈:
孔子曰く:“我十五歳にして学問に志した。三十歳で自分の立ち位置を決め。四十歳にて惑うことは無くなった。五十歳で天から与えられた使命を理解し、六十歳にして全てを受け入れる余裕ができた。七十歳で心の赴くままに行動しても道理を踏み外すことは無くなった。”
十五歳:志学、三十歳:而立、四十歳:不惑、五十歳:知名、六十歳:耳順、七十歳:従心
六十代最後の一年で、なんとか耳順の境地に至りたいものです。
《论语》子罕第九-22
(1)秀:米や麦などの作物が穂を出し花を咲かせること。
素読文:
子曰く:“苗にして秀でざる者有るかな。秀でて実らざる者有るかな。”
解釈:
孔子は60歳を過ぎていたが弟子たちと共に衛の霊公を訪ねた。しかしその頃衛の国は父子が対立、不穏な治世だった。孔子は衛での任官を諦め、周辺国を彷徨っている時に陳と蔡の軍勢に囲まれてしまう。
この様な状況で弟子たちの不満が高まっているのを感じ取った孔子は、弟子たちを哀れに思う。
しかし弟子の中には苗のままで終わってしまう者もある。花が咲いても実がならぬ者もある。甘やかさず弟子たちを正しく導かねばならぬと思い直す。
下村湖人は「論語物語」でこの一節をこの様に描写しています。
《论语》雍也第六-3
(1)哀公:魯の国の君主。
素読文:
哀公問う、弟子、孰か学を好むと為す。
孔子対えて曰く、顔回なる者有りて、学を好みたり。怒りを遷さず、過ちを弐びせず。不幸短命にして死せり。今や則ち亡し。未だ学を好む者を聞かざるなり。
解釈:
哀公が孔子に尋ねた:“弟子の中で誰が最も学問を愛しているかね?”
孔子は答えて曰く:“顔回という弟子が学問を好みました。怒りを遷さず、過ちを繰り返さない賢者です。しかし不幸にして短命でこの世をさりました。いまだ顔回ほど学問を好むものを知りません”
この節でも、顔回に先立たれた孔子の悲しみがじわっと伝わってきます。
子曰:“回也其庶乎,屡空(1)。赐(2)不受命,而货殖焉(3),亿则屡中。”
《论语》先进第十一-19
(1)屡空:しばしば財布が空になる
(2)赐:子貢の名
(3)殖焉:金儲け
素読文:
子曰く:“回や其れ庶からんか。屢空し。賜は命を受ずして貨殖す。億れば則ち屢中る。”
解釈:
孔子曰く「顔回は理想の境地に近いが、いつも貧乏だ。子貢は天命に従わず、金儲けに励んでいる。しかし判断は正しいので、やることは的中する。」
孔子は顔回の貧しても道を極める態度を高く評価している。子貢は貧乏な頃は人にへつらうまいと努力し、富んでも人に奢るまいと努力してきた。孔子はその努力を認めているが、その努力がまだ貧富にとらわれていることだと指摘しています。
颜渊死,门人欲厚葬之。子曰:“不可。”门人厚葬之。
子曰:“回也,视予犹父也,予不得视犹子也,非我也,夫二三子(1)也。”
《论语》先进第十一-11
(1)二三子:数名の門人たち
素読文:
顔淵死す。門人厚く之を葬らんと欲す。子曰く:“不可なり”と。門人厚く之を葬むる。
子曰く:“回や予を視ること猶父のごとくせり。予は視ること猶子のごとくするを得ざるなり。我には非ざるなり。夫の二三子なり。”
解釈:
孔子が最も愛した弟子・顔淵が死んでしまいます。しかも自分より30歳も年下。孔子の嘆きは尋常ではなかったようです。
顔淵死す(孔子の思い)
顔淵の死を慟せり
顔淵は、あばら家に住み一膳の飯、一杯の水で生活をしていました。こういう一切の楽しみを捨て、求道者の如く生きている顔淵を孔子はこよなく愛していたのでしょう。
賢なるかな回也
門人たちは顔淵を盛大な葬儀で送り出したかったが、孔子にはそれは顔淵の生前の志と違うと考えたのでしょう。孔子のそんな思いが理解できずに門人たちは盛大な葬儀を催した。
最も愛した弟子・顔淵を失った孔子の悲しみは更に深くなったでしょう。
颜渊死,子哭之恸。从者曰:“子恸矣。”曰:“有恸乎。非夫人之为恸,而谁为?”
《论语》先进第十一-10
素読文:
顔淵死す。子、之を哭して慟す。従者曰く:“子慟せりと。”曰いわく:“慟する有しか。夫の人の為に慟するに非ずして、誰為にかせんと。”
解釈:
顔淵死す。孔子は慟哭する。従者曰く“子は慟哭されました。”
子曰く“これを慟哭せずして、誰のために慟哭することがあろう”
孔子が最も愛した弟子・顔淵が死んでしまう。しかもまだ30歳を越したばかりです。孔子の悲しみは如何程であったでしょう。
子曰:“才不才,亦各言其子也。鲤(3)也死,有棺而无椁。吾不徒行以为之椁。以吾从大夫之后,不可徒行也。”
《论语》先进第十一-8
(1)颜路:顔淵の父親。
(2)椁:棺を入れる外棺。
(3)鲤:孔子の長男。名は鯉、字は伯魚。
素読文:
顔淵死す。顔路子の車を以て之が椁を為らんと請う。
子曰く:“才も不才も、亦各々其の子を言うなり。鯉や死せしとき、棺有りて椁無し。吾徒行して以て之が椁を為らざりしは、吾大夫の後に従い、徒行すべからざるを以てなり。”
解釈:
顔淵が死んだ。父の顔路は彼のために外棺を造ってやりたいと思った。そこで孔子に願った。
「子の車をいただき、それを金にかえて、外棺を作ってやりたいと思います」
子曰く「才能があろうとなかろうと、子の可愛いさは同じだ。私も鯉が死んだ時には、せめて外棺ぐらい作ってやりたいと思った。しかし内棺だけですますことにした。車を売って外棺を作ってやることもできただろう。しかし、私があえてそれをしなかったのは、私も大夫であるからには、職掌がら、徒歩で出歩くわけにいかなかったからなのだ」
孔子は顔淵のことを「才不才」などと言っていますが、孔子自身は顔淵の才能を一番評価していたはずです。