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学びと実践

yǒuwénwèizhīnéngxíngwéikǒngyòuwén

《论语》公冶长第五-14

素読文:
子路しろくことて、いまこれおこなうことあたわずんば、くことるをおそる。

解釈:
子路は名言、善言を聞いてもそれを行動に移さねば、新たな名言、善言を聞くことを恐れた。

下村湖人の「論語物語」ではこの節は孔子の息子・伯魚と若い弟子・陳亢に対し「元来教えを聞きたがる心は、己の軽薄さを示すだけだ」と教える場面の言葉として書いています。

一方で孔子は自ら問いを立てぬものは教えようがない、とも言っています。

書籍やネットからの情報を大量にインプットして、頭でっかちとなり皆が「評論家」になってしまい、弁は立つが行動しない人ばかりになっては世の中は変わらない。孔子が若い弟子に説いた言葉は、私たち現代人にも警句となっています。

まずは自問

yuē:“yuēzhīzhīzhězhī。”

《论语》卫灵公第十五-16

素読文:
いわく:“これ如何いかんせん、これ如何いかんせんといわざるものは、われこれ如何いかんともすることきのみ。”

解釈:
子曰く:“どうしたら良いかと自ら問わない人に対して、私はどうしたらいいかわからない。”

課題、疑問を持たずに、教師や上司に質問・相談をしても、教えようがありません。

学びて厭わず、倦むことなく教える

yuēérzhìzhīxuééryànhuìrénjuànyǒuzāi

《论语》述而第七-2

素読文:
いわく、もくしてこれり、まなびていとわず、ひとおしえてまず。なにわれらんや。

解釈:
子曰く:“黙って憶え、飽くことなく学び、そして倦むことなく人に教える。私にできるのはそれだけだ。”

「ただそれだけだ」と言っていますが、凡人にはそれができません。

古聖の道を好む

yuē:“fēishēngérzhī(1)zhīzhěhào(2)mǐn(3)qiúzhīzhě。”

《论语》述而第七-20

(1)生而知:生まれながらにして知る。
(2)好古:古代の文化を好む。
(3)敏:汲々として

素読文:
いわく:“われまれながらにしてこれものあらず。いにしえこのみ、びんにしてもっこれもとめしものなり。”

解釈:
孔子曰く:“私は生まれながらにして何もかも知っている者ではない。古代からの教えを好み、その探求を汲々と続けているだけだ。”

孔子は「老彭に比す」でも自分は古代の教えを伝えているだけだと言っています。

人に知られざるを憂えず

yuē:“huànrénzhīzhīhuànzhīrén

《论语》学而第一-16

素読文:
いわく:“ひとおのれらざるをうれえず、ひとらざるをうれうるなり。”

解釈:
世間に認められないことを憂えず、世の人々の能力を知らないことを憂う。

憲問第十四-35で孔子は自分の能力が治世に活かされないのを嘆いて「我を知るは天のみか」と言っています。さすがの孔子も晩年には少し愚痴っぽくなったのでしょうか。

泰山にて

yuē:“zhī。”
gòngyuē:“wèizhī。”
yuē:“yuàntiānyóurénxiàxuéérshàngzhīzhětiān!”

《论语》宪问第十四-35

素読文:
いわく:“われるものきかな。”
こういわく:“なんれぞからんや。”
いわく:“てんうらみず、ひととがめず、下学かがくしてじょうたつす。われものてんか。”

解釈:
孔子晩年の一節です。下村湖人の「論語物語」によると弟子ともども泰山に登り、頂上で弟子たちに語った言葉です。「我を知る者なきかな」は自分の考えが頭抜けて理解できない、という意味ではなく、自分の考えを取り入れて治世を行う国がなかったことを嘆いだのではないでしょうか?
中国だけではなく、日本でも孔子の教えは時空を超えて生き続けています。
「我を知る者なきかな」歳をとった孔子の杞憂だったのでしょう。

矩を踰えず

yuē:“shíyòuérzhìxuésānshíérshíérhuòshíérzhītiānmìngliùshíérěrshùnshíércóngxīnsuǒ。”

《论语》为政第二-4

素読文:
いわく:“われじゅうゆうにしてがくこころざす。さんじゅうにしてつ。じゅうにしてまどわず。じゅうにして天命てんめいる。ろくじゅうにしてみみしたがう。しちじゅうにしてこころほっするところしたがいて、のりえず。”

解釈:
孔子曰く:“我十五歳にして学問に志した。三十歳で自分の立ち位置を決め。四十歳にて惑うことは無くなった。五十歳で天から与えられた使命を理解し、六十歳にして全てを受け入れる余裕ができた。七十歳で心の赴くままに行動しても道理を踏み外すことは無くなった。”

十五歳:志学、三十歳:而立、四十歳:不惑、五十歳:知名、六十歳:耳順、七十歳:従心

六十代最後の一年で、なんとか耳順の境地に至りたいものです。

陳蔡の野

yuē:“miáoérxiù(1)zhěyǒuxiùérshízhěyǒu。”

《论语》子罕第九-22

(1)秀:米や麦などの作物が穂を出し花を咲かせること。

素読文:
いわく:“なえにしてひいでざるものるかな。ひいでてみのらざるものるかな。”

解釈:
孔子は60歳を過ぎていたが弟子たちと共に衛の霊公を訪ねた。しかしその頃衛の国は父子が対立、不穏な治世だった。孔子は衛での任官を諦め、周辺国を彷徨っている時に陳と蔡の軍勢に囲まれてしまう。
この様な状況で弟子たちの不満が高まっているのを感じ取った孔子は、弟子たちを哀れに思う。
しかし弟子の中には苗のままで終わってしまう者もある。花が咲いても実がならぬ者もある。甘やかさず弟子たちを正しく導かねばならぬと思い直す。

下村湖人は「論語物語」でこの一節をこの様に描写しています。

孔子が最も愛した弟子

āigōng(1)wèn:“shúwéihàoxué?”
kǒngduìyuē:“yǒuyánhuízhěhàoxuéqiānèrguòxìngduǎnmìngjīnwèiwénhàoxuézhě

《论语》雍也第六-3

(1)哀公:魯の国の君主。

素読文:
哀公あいこうう、弟子ていしたれがくこのむとす。
こうこたえていわく、顔回がんかいなるものりて、がくこのみたり。いかりをうつさず、あやまちをふたたびせず。こう短命たんめいにしてせり。いますなわし。いまがくこのものかざるなり。

解釈:
哀公が孔子に尋ねた:“弟子の中で誰が最も学問を愛しているかね?”
孔子は答えて曰く:“顔回という弟子が学問を好みました。怒りを遷さず、過ちを繰り返さない賢者です。しかし不幸にして短命でこの世をさりました。いまだ顔回ほど学問を好むものを知りません”

この節でも、顔回に先立たれた孔子の悲しみがじわっと伝わってきます。

回や其庶からんか
三月仁に違わず
賢なるかな回也
一を聞いて十を知る

回や其庶からんか

yuē:“huíshùkōng(1)(2)shòumìngérhuòzhíyān(3)亿zhòng。”

《论语》先进第十一-19

(1)屡空:しばしば財布が空になる
(2)赐:子貢の名
(3)殖焉:金儲け

素読文:
いわく:“かいちかからんか。しばしばむなし。めいうけずして貨殖かしょくす。はかればすなわしばしばあたる。”

解釈:
孔子曰く「顔回は理想の境地に近いが、いつも貧乏だ。子貢は天命に従わず、金儲けに励んでいる。しかし判断は正しいので、やることは的中する。」
孔子は顔回の貧しても道を極める態度を高く評価している。子貢は貧乏な頃は人にへつらうまいと努力し、富んでも人に奢るまいと努力してきた。孔子はその努力を認めているが、その努力がまだ貧富にとらわれていることだと指摘しています。